植物一日一題
牧野富太郎
馬鈴薯とジャガイモ
ジャガタライモ、すなわちジャガイモ(Solanum tuberosum L.)を馬鈴薯ではないと明瞭に理解している人は極めて小数で、大抵の人、否な一流の学者でさえも馬鈴薯をジャガイモだと思っているのが普通であるから、この馬鈴薯の文字が都鄙を通じて氾濫している。が、しかしジャガイモに馬鈴薯の文字を用うるのは大変な間違いで、ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではないことは最も明白かつ確乎たる事実である。こんな間違った名を日常平気で使っているのはおろかな話で、これこそ日本文化の恥辱でなくてなんであろう。
昔といっても文化五年(1808)の徳川時代に
元来馬鈴薯というものは中国の福建省中の一地方に産する一植物の名で、それが『
しかるにジャガタライモは元来外国産、すなわち南アメリカのアンデス地方の原産のもので、四三三年前の西暦一五六五年に初めて欧州に入り、後ち欧州から東洋に持ち来たされ、ついに我が日本におけると同様に中国にも入りこんだものである。この事実からみても、それが元来の中国植物である馬鈴薯ではあり得ない理屈ではないか。そして中国人はこの外来植物に対して適切な新命名の洋芋(洋とは海外から来た渡り者を意味する)あるいは荷蘭薯(オランダイモの意)などと称えていて、けっしてこれを馬鈴薯などと間違った名では呼んでいない。その間違いを敢てしているものはひとり日本人だけである。これはちょうど馬を指して鹿だといい、人を指して猿だといっているようなものであるから、この馬鈴薯をジャガイモと呼ぶことは躊躇なく早速に廃すべく、したがって馬鈴薯の名は即刻放遂すべきものだ。
さて馬鈴薯そのものの形状は、上の『松溪県志』によれば、
馬鈴薯ハ葉ハ樹ニ依テ生ズ、之レヲ掘リ取レバ形チニ小大アリテ略ボ鈴子ノ如シ、色ハ黒クシテ円ク、味ハ苦甘シ(漢文)
と書いてあるにすぎない。今この文についてみると、馬鈴薯なるものは一つの蔓草で樹木に攀じのぼり、その根を掘ってみると根に大小があって、その形がほぼ鈴のように円く、そしてその色が黒くてその味は苦甘いものだというだけで、その葉の形状もその花の様子もいっさい不明であるが、小野蘭山はこの漫然たる疎漏至極な文に基づいてその馬鈴薯をジャガタライモだとよくも言えたものだ。ジャガイモの茎は誰でも知っているようにけっして樹木に攀じのぼるような蔓ではなく、またその薯は黒色ではなく、また味も苦甘いものではない。だから馬鈴薯の草状は少しもジャガタライモの形状とは一致していない。世人は上の蘭山の謬説に惑わされてほとんど皆が盲となっているのはまことに笑止千万なことで、そのおめでたさを祝する次第である。
今この『松溪県志』の馬鈴薯を想像してみると、まず考えに浮かぶのはマメ科のホドイモ(Apios Fortunei Maxim.)で、あるいはこれを指していっているのではないかと思われんでもない。このホドイモはまた中国にも産するから全く縁がない訳ではない。そしてこのホドイモは中国で九子羊と称しているものと同じであろうと信ずる。この九子羊は
右から推想してみると、まずまず九子羊ならびに土※[#「囗<欒」、U+571E、8-3]児がいわゆる馬鈴薯にあたるように感ずる。もし果たしてそうだとすれば、とにかく、上の「葉ハ樹ニ依テ生ズ」[葉のある蔓が樹木に寄りすがって登っているの意]の意味とも吻合する。九子羊の根塊は円形で濃褐色だから、それを漫然と黒味がかった色と書いたのだと言えば通らんこともなかろうし、また苦甘はそれを噛んでの腥さい味を不手際に形容して書いたのだと評せば許しておけないこともあるまい。こんなわけで、馬鈴薯は九子羊および土※[#「囗<欒」、U+571E、8-8]児すなわちホドイモであるようだとして、疑を存しておくよりほか今別に致し方もあるまい。つまり福建省の松溪県からその土地でいう馬鈴薯の実物が出て来てくれさえすれば、この問題はたちまち解決せられるのであるが、それは中国の学者の研究に期待したい。
ジャガタライモは、今世間一般の人が呼んでいるようにジャガイモと仮名で書けばよろしい。もしこれを漢字で書きたければそれを爪哇芋か爪哇薯かにすればよい。なにも大間違いの馬鈴薯の字をわざわざ面倒くさく書く必要は全くない。いったい植物の日本名すなわち和名はいっさい仮名で書くのが便利かつ合理的である。漢名を用いそれに仮名を振って書くのは手数が掛り、全くいらん仕業だ。例えばソラマメはソラマメでよろしく、なにも煩わしく蚕豆と併記する必要はない。キュウリはキュウリ、ナスはナス、トウモロコシはトウモロコシ等々で結構だ。胡瓜、茄、玉蜀黍等はいらない。
今日中国の書物に、ジャガイモに対し往々馬鈴薯の名が使ってあるが、これはその誤りを日本から伝え、中国人が無自覚にそれを盲従しているにすぎないのである。こんなわけであるから、たとえ、今の中国人が馬鈴薯の字を使っていても、なにもそれは信頼するには足りないことを十分に承知していなければならない。ジャガイモを馬鈴薯だとする誤認は日本でも中国でも敢て変わりはない。
九子羊(『植物名実図考』)
ホドイモ
土※[#「囗<欒」、U+571E、7-図キャプション]児(『救荒本草』)
けだし九子羊と同種ホドイモ