植物一日一題 牧野富太郎

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 二十四歳のシーボルト画像
 
 理学博士白井光太郎しらいみつたろう君の著『日本博物学年表』の口絵に出ているシーボルトの肖像画は、もと私の所有であったが、今からずっと以前明治三十五、六年の時分でもあったろうか、私は白井君のこの如きものの嗜好癖を思い遣ってこれを同君に進呈した。この肖像は彩色を施した全身画で、白井君の記しているように二十四歳で文政九年(1826)東都に来ったときの写生肖像絵で、これは『本草図譜』の著者、灌園岩崎常正かんえんいわさきつねまさの描いたものである。そして私は当時これを本郷区東京大学近くの群庶軒書店から購求したもので、同書店ではこれを岩崎家の遺族から買い入れたものであった。
 
「シーボルト画像 岩崎常正(灌園)筆(着色)、この肖像画は元岩崎家遺族から本郷の一書肆に出たもので、牧野富太郎が買い取り白井光太郎君に譲渡したものであるが、今は上野の国立図書館に蔵せられている」のキャプション付きの図

シーボルト画像
岩崎常正(灌園)筆(着色)、この肖像画は元岩崎家遺族から本郷の一書肆に出たもので、牧野富太郎が買い取り白井光太郎君に譲渡したものであるが、今は上野の国立図書館に蔵せられている

 
 白井君はこの肖像の上半身だけを同氏著書、すなわち『増訂日本博物学年表』(明治四十一年発行)に掲げているが、それを私から得た由来はかつて一度も書いたことなく、またいささか謝意を表したこともなかったので、今ここにそれを私から白井氏へ渡った顛末を叙して、その肖像画の由来を明かにしておく。
 なおこのほか灌園の筆で美濃半紙へ着色で描いた小金井桜等の景色画二、三枚をも併せて白井君に進呈しておいたが、それらの画は今どこへ行っているのだろう。
 また小野蘭山おのらんざん自筆の掛軸一個も気前よく同君に進呈しておいた。それに蘭山先生得意の七言絶句詩が揮亳きごうせられてあったが、今その全文を忘れた。なんでも山漆、鶴虱のことが詠じてあった。そしてこの掛軸は私の郷里土佐佐川町の医家山崎氏の旧蔵品で、私は前にこれを同家から購求したものであった。同時に同家所蔵の若水じゃくすい本『本草綱目ほんぞうこうもく』もまたこれを買い求め、これは今も私の宅に在る。この山崎家の今の主人は医学博士山崎正董まさただ氏であったが、今は既に故人となった。