植物一日一題 牧野富太郎

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 毒麦
 
 毒麦すなわちドクムギ! 貴い食料品の麦の仲間に毒麦があることを聞けば恐わいことに思われるが、イヤなにも心配無用、その毒麦は本当の麦の仲間ではなく、また本当の麦にはけっして毒はないからご安心のこと、そしてここに毒麦と銘打って出頭したのはそれはホモノ科(禾本科)のものではあるが、全く別属の品で名は毒麦でも麦とはなんの関係もない。しかし小麦粉を度々食料にする今日ただいまでは、この毒麦には吾不関焉われかんせずえんたるを得ない不安心が存する。
 以前我が都民が配給の小麦粉を食って中毒したという風聞が頻々として耳朶じだを打ったことがあった。当時私はこれを新聞で見たとき直ぐにも、ははあ、それは毒麦からの中毒ではなかろうかと直感した。数日を経て東京帝国大学農学部の佐々木喬農学博士も同じくそれは毒麦の中毒ではないかと推測せられた記事が新聞にでていたのを見て、同博士もやはり同じ感じだなと思った。しかるにある菌学者が言うのには、それは多分その小麦粉が湿気を帯びて何か黴が来、それから分泌した毒のためではなかろうかとのことであった。
 ずっと以前、もう三十年ママあまりにもなったろうが、我国の麦畑に諸所で毒麦の繁殖したことがあった。その後もどこかでボツボツは生じているのではなかろうかと思うこともあったが、少しばかり生えていたとて別に人の注意も惹かないので、その後私は全く毒麦のことは忘れていた。しかるに近年それが東京付近の地で少々生えていたことを知った。
 いったいこの毒麦とはどんなものか。先ずこの禾本の学名をたずねると、それは Lolium temulentum L. であって、その種名の temulentum とはぐでんぐでんに酒に酔うたことである。そして本品は欧州、北アフリカ、西シベリアならびにインドの原産である。一年生の草で独生あるいは叢生のかんは直立し、単一で分枝せず高さが三、四尺にも達する。線形の緑葉を互生し、葉片下に稈を取り巻く長い葉鞘がある。細長一本ずつの緑色花穂は稈に頂生し、果穂は熟後褐色を呈し、小穂(学術語であって螽花しゅうかと称する)は穂軸に互生して二列生をなし、五ないし十一花よりなっている。苞状をなした一空頴は小穂より少しく長く、穀粒は小形で長楕円形を呈し白褐色である。
 この毒麦がよく小麦畑に生えるので、その収穫のさい毒麦の穀粒が一緒に小麦の穀粒にまじることがある。そしてその毒麦の穀粒は刺激性、麻酔性の毒分を有し、それを食うとよく口に譫語を発し、胃に苦しい痙攣がおこり、心臓が衰弱し、睡気を催し、眩暈がしあるいは昏倒し、悪寒が来、嘔気を催しあるいは嘔吐し瞳孔が散大する。そしてこの有毒アルカロイドをテムリン(Temulin)と称する。
 毒麦の俗名には Darnel, Tares, Ivry, Poison rye-grass がある。
 この毒麦の属する Lolium ママには通常なお二つの種があって、早くも他の牧草とともに我国に入って来て今はすでに帰化植物となっている。すなわちその一つは Lolium perenne L. で俗に Rye-Grass といい、ホソムギの和名があり、その花にはのぎがない。またその一つは Lolium multiflorum Lam.(=Lolium italicum A. Br.)で俗に Italian Rye-Grass と称え、ネズミムギの和名を有し花に芒がある。この有芒無芒の点で容易にこのホソムギ、ネズミムギの区別がつく。