植物一日一題 牧野富太郎

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 小野蘭山先生の髑髏
 
 この蘭山らんざん小野先生の髑髏の写真はじつに珍中の珍で容易に見ることの出来ないものである。ここに文化七年(1810)に物故せるこの偉人の髑髏を拝することを得たる事実は、この上もない幸運であるといえる。先生の幾多貴重な名著、殊に白眉の『本草綱目啓蒙ほんぞうこうもくけいもう』四十八巻のような有益な書物は、生前この髑髏の頭蓋骨内に宿った非凡な頭脳からほとばしり出た能力の結晶であることを想えば、今ここにこの影像に対してうたた敬虔の念が油然として湧き出づるのを禁じ得ない。私においてはもとよりであるが、併せて読者諸彦しょげんに対しても同じくこの尊影に向って合掌せられんことを御願いする。
 蘭山先生はもと京都の人で名を職博もとひろと称え、俗称を記内といった。そして我国本草学中興の明星であり、四方の学徒その学風を望んでみな先生を宗とし、あたかも北辰其所に居て衆星これにむかうが如くに、その教えに浴したものである。
 二十五歳の時代から自邸において弟子を集め本草学を講義していて敢えて官途には就かなかった。先生は若いときから読書が好きで松岡恕菴まつおかじょあんの門に学び本草の学を受けた。非常に物覚えのよい人で一度見聞きしたことは終生忘れなかった。
 七十一歳に達したとき幕府に召されて東都(東京)に来り、医官に列して本草学と医学とを医学館で講義した。そして時に触れては諸国へ採薬旅行を試みた。先生の書斎衆芳軒はまるで雑品室のようで、室内には書籍や参考資料や研究材料がイヤというほど一杯に満ちて足のふみ場もなく、先生は僅かにその間に体を容れて坐り机に向かってあるいは書を読みあるいはそれを筆写しまたは抄録しまた実物を研鑚せられた。その間気が向けば笛を吹き興が湧けば詩をも賦せられた。シーボルトは先生を日本のリンネだと称讃した。先生は元来近眼であったが眼鏡は掛けなかった。そして灯下で字を写すにも平気で筆を運ばせ、また草木の写生図もよくした。松岡恕菴の『蘭品らんぴん』並に島田充房しまだみつふさの『花彙かい』に先生の描かれた見事な図がある。
 先生は享保十四年(1729)八月二十一日に京都の桜木町で生まれたが、前記の如く文化七年(1810)正月二十七日に八十二歳の高齢に達して東都医学館の官舎で病歿し、浅草田島町の誓願寺に葬られて墓碑が建った。
 この偉人の墳塋ぼえいは右に記したように誓願寺に在ったのだが、後ち昭和四年に練馬南町の迎接院(浄土宗)に改葬せられた。そして改葬の際先生の髑髏がその後裔によって親しく撮影せられ、私は同遺族小野家主人の好意でこの写真を秘蔵する光栄に浴し得たのである。
 
「小野蘭山先生の髑髏」のキャプション付きの写真
小野蘭山先生の髑髏
 
「ホルトソウ 半枝連、続随子(小野蘭山筆)」のキャプション付きの図

ホルトソウ
半枝連、続随子(小野蘭山筆)