植物一日一題 牧野富太郎

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 日本で最大の南天材
 
 明治三十九年(1906)八月に滋賀県の人々の主催で、近江伊吹山植物講習会が開かれ、四方から雲集した講習員は約三百名もあった。そしてこの会に講師として招かれ東京から赴いた私は、伊吹山下の坂田郡春照しゅんじょう村での一旧家的場まとば徹氏の邸に宿した。その時同家の庭へ突き出た建物の側に極めて巨大な南天があって繁茂しているのを見、その樹容の長大で勇偉なのに驚歎し、これぞまさに日本一の大南天であって、かの京都の金閣寺の南天の柱などはこれに比べれば小さくて顔色のないものだと賞讃した。
 それより早くも十七年をへた大正十二年(1923)九月一日の関東大震災に先だつこと数年前に、その南天の枯幹が的場家の家屋修繕の際に倒れて枯死した由で、図らずも江州春照村の原地から東京丸ノ内の報知新聞社代理部へ持ちこまれた。当時これを八百円で売却したいと唱えていた。その時はちょうど欧州大戦後であったので成金目当てにこんな値段を吹いたものであろう。私はこの時その写真を撮っておいたが、それが昭和十一年四月発行の『牧野植物学全集』の口絵に出ている。その後この幹が他所へ移され、なんでも東京朝日新聞社の代理部の方へ回ったと聞いたようだが、その後その行き先きがどうなったか私には分らなくなった。そしてそれが東京の誰かの家にあったとしたらあるいは大震災で焼失したかも知れないが、幸いにそれが無事だったとしても、あるいは今回の大戦火で烏有に帰したのであろう。もしまた東京に置いてなかったなら何れかの所にあるのかも知れないが、今日では全くこの南天大木の消息は判らない。もしも万が一どこかに無事に残存していたら極めて珍重すべきものたることを失わない。敗戦で日本は大分狭くはなったが、それでもなおなかなか広いからどこの国にあるいは右に優る巨大なものがないとも断言は出来ない。
 上の南天巨幹はその根元から七本に分かれ、その中の最大の主幹は株元から曲尺かねじゃく二尺一寸五分ばかりの辺に最下の一枝があり、根元から五寸ばかりのところは周り八寸あって、そして幹の全長は一丈四尺五寸あった。
 今日右とは別に私宅にも一本の巨大な南天の材が保存せられてある。長さは上述近江のものには及ばないが、太さは根元から八寸ばかりのところで周囲まさに九寸を算するから、右近江のそれよりも一寸多い(しかし最下の方はやや小さくなっている)。してみると、これは近江のものより少々優越していることになる。私は大正十二年(1923)八月にこれを備後三原町南方の在で得たが、当時一漁民の家の庭に一叢の南天が繁っていて、その叢中にこの一本の巨幹が交っていた。そこで早速その持主に乞うてこれを伐り東京の我が家に携へ帰って、今日なお秘蔵しているものである。これぞすなわち、今私の知り得る範囲では最大な南天の巨材である。
 京都の嵯峨に佐野藤右衛門という植木屋の老人があって、植木のことには誠に堪能であった。そして特別にサクラを愛して多くの種類を園中に蒐めていた。あるとき巨大に成長した南天の話をしたら、この老人のいうには、南天の種子を極めて大量に蒔いて沢山にその苗を仕立ててみると、その中には群を抜いて特に大形に育ち来るものが一、二本はある。総じて南天は叢生する天性があるのだが、この大きくなる苗は常に一本立ちになっているとのことであった。