植物一日一題 牧野富太郎

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 ハマユウの語原
 
 ハマユウはハマオモトともハマバショウともいうもので、漢名は『広東新語かんとんしんご』にある文珠蘭ブンシュランであるといわれる。宿根生の大形常緑草本でヒガンバナ科に属し、Crinum asiaticum L. var. japonicum Baker の学名を有し、我国暖国の海浜に野生している。葉は多数叢生して開出し、長広な披針形を成し、質厚く緑色で光沢がある。茎は直立して太く短かい円柱形をなし、その葉鞘ようしょうが巻き重なって偽茎となっている。八、九月頃の候葉間から緑色の※(「くさかんむり/亭」、第4水準2-86-48)ていを描き高い頂に多くの花が聚って繖形をなし、花は白色で香気を放ち、狭い六花蓋片がある。六雄蕊ゆうずい一子房があってその白色花柱の先端は紅紫色を呈する。花後に円実を結び淡緑色の果皮が開裂すると大きな白い種子がこぼれ出て沙上にころがり、その種皮はコルク質で海水に浮んで彼岸に達するに適している。そしてその達するところで新しく仔苗をつくるのである。
 葉の本の茎は本当の茎ではなく、これはその筒状をした葉鞘が前述のように幾重にも巻きかさなって直立した茎の形を偽装しており、これを幾枚にも幾枚にも剥がすことが出来、それはちょうど真っ白な厚紙のようである。
『万葉集』巻四に「三熊野之浦乃浜木綿百重成心者雖念直不相鴨みくまぬのうらのはまゆふももへなすこころはもへとただにあはぬかも」という柿本人麻呂の歌がある。この歌中の浜木綿はまゆふはすなわちハマオモトである。この歌の中の「百重成」の言葉はじつに千釣の値がある。浜木綿の意を解せんとする者はこれを見のがしてはならない。
 貝原益軒の『大和本草』に『仙覚抄せんがくしょう』を引いて「浜ユフハ芭蕉ニ似テチイサキ草也茎ノ幾重トモナクカサナリタル也ヘギテ見レバ白クテ紙ナドノヤウニヘダテアルナリ大臣ノ大饗ナドニハ鳥ノ別足ツヽマンレウニ三熊野浦ヨリシテノボラルヽトイヘリ」とある。また『綺語抄きごしょう』を引いて「浜ユフハ芭蕉ニ似タル草浜ニ生ル也茎ノ百重アルナリ」ともある。
 また月村斎宗碩げっそんさいそうせきの『藻塩草もしおぐさ』には「浜木綿」の条下の「うらのはまゆふ」と書いた下に
 

みくまのにあり此みくまのは志摩国也大臣の大饗の時はしまの国より献ずなる事旧例也是をもつて雉のあしをつゝむ也抑此はまゆふは芭蕉に似たる草のくきのかはのうすくおほくかさなれる也もゝへとよめるも同儀也又これにけさう文を書て人の方へやるに返事せねば其人わろしと也又云これにこひしき人の名をかきて枕の下にをきてぬればかならず夢みる也此みくまのは伊勢と云説もあり何にも紀州はあらず云々

 
とある。
 浜木綿とは浜に生じているハマオモトの茎の衣を木綿(ユフとは元来は楮すなわちコウゾの皮をもって織った布である。この時代にはまだ綿はなかったから畢竟木綿を織物の名としてその字を借用したものに過ぎないのだということを心に留めておかねばならない。ゆえにユフを木綿と書くのはじつは不穏当である)に擬して、それで浜ユフといったものだ。人によってはその花が白き幣を懸けたようなのでそういうといってるけれど、それは皮相の見で当っていない。本居宣長もとおりのりながの『玉かつま』十二の巻「はまゆふ」の条下に「浜木綿………浜おもとと云ふ物なるべし………七月のころ花咲くを其色白くてタリたるが木綿に似たるから浜ゆふとは云ひけるにや」と書いてあるが、「云ひにけるにや」とあってそれを断言してはいないが、花が白くて垂れた木綿に似ているから浜ユフというのだとの説は、疾に人麻呂の歌を熟知しおられるはずの本居先生にも似合わず間違っている。
 同じく本居氏の同書『玉かつま』木綿の条下に「いにしへ木綿ユフと云ひし物はカヤの木の皮にてそを布に織たりし事古へはあまねく常の事なりしを中むかしよりこなたには紙にのみ造りて布に織ることは絶たりとおぼへたりしに今の世にも阿波ノ国に太布タフといひて穀の木の皮を糸にして織れる布有り色白くいとつよし洗ひてものりをつくることなく洗ふたびごとにいよいよ白くきよらかになるとぞ」と書いて木綿が解説してある[牧野いう、土佐で太布タフというのはアサで製した布のものをそう呼んでいた]
 小笠原島にオオハマユウというものがある。その形状はハマユウすなわちハマオモトと同様でただ大形になっているだけである。この学名は Crinum gigas Nakai である。が、私は今これを Crinum asiaticum L. var. gigas(NakaiMakino(nov. comb.)とするのがよいと信じている。