植物一日一題 牧野富太郎

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 万葉歌のツチハリ
 
 万葉歌のツチハリ、それは『万葉集』巻七に「わがやどにおふるつちはりこころよも、おもはぬひとのきぬにすらゆな」(吾屋前爾生土針従心毛、不想人之衣爾須良由奈)という歌があって、このツチハリの名が一つの問題をなげかけている。
 このツチハリ(土針)は、人がなんと言おうとも、または古書になんとあろうとも、それはけっして古人が王孫(『倭名類聚鈔わみょうるいじゅしょう』には「王孫、和名沼波利久佐(ヌハリグサ)……豆知波利(ツチハリ)」と書いてある)にあてているツクバネソウではけっしてない。
 このツクバネソウは深山に生じているユリ科の小さい毒草で Paris tetraphylla A. Gray の学名を有し、もとより家の居囲りに見るものでは断じてない。またこの草は絶えて染料になるべきものでもなく、まずは山中の樹下にボツボツと生えているただの一雑草にすぎないのである。
 今この歌でみると、そのツチハリは家の近か囲りに生えていて、そしてそれが染料になるものでなければならないはずだ。それでは何であろうか。
 私の師友であった碩学の永沼小一郎氏は、ツチハリをゲンゲ(レンゲバナ)だとせられていたが、それにはもとより一理屈はあった。が、しかし私の愚考するところではツチハリに三つの候補者がある。すなわちその一はハギ(萩)の嫩い芽出ちの苗、その二はハンノキ、その三はコブナグサである。そこで私はこのコブナグサこそそのツチハリではなかろうかと信じている。すなわちその禾本科なるこの草は通常家の居囲りの土地に生えていて、その花穂が針のように尖っており、(それで土針というのだと想像する)、そしてその草が染料になるのだから、この万葉歌のツチハリとはシックリと合っているように感ずる。しかしこの事実は古来何人も説破しておらず、この頃私の初めて考えついた新説であるから、これが果たして識者の支持を受け得るか否かは一切自分には判らない。
 右のコブナグサであれば、歌の「わがやどに生ふる」にも都合がよく、また「きぬにすらゆな」にも都合がよい。
 このコブナグサは Arthraxon hispidus(Thunb.)Makino の学名を有し、ホモノ科(禾本科)の一年生禾本で、各地方の随地に生じ土に接して低く繁茂し、前にも書いたように秋に沢山な針状花穂が出て上を指している。細稈に互生した有鞘葉はその葉片幅広く、基部は稈を抱いている特状があるので、容易に他の禾本と見別けがつく。そしてその葉形を小さい鮒に見立てて、それでこの禾本にコブナグサの名があるのである。
 古く深江輔仁ふかえのすけひとの『本草和名ほんぞうわみょう』には、このコブナグサを※(「くさかんむり/盡」、第3水準1-91-34)ジンソウにあててその和名を加伊奈(カイナ)一名阿之為アシヰとしてあり、また源順みなもとのしたごうの『倭名類聚鈔わみょうるいじゅしょう』には同じく※(「くさかんむり/盡」、第3水準1-91-34)草にあててその和名を加木奈(カキナ)[牧野いう、加木奈は蓋し加伊奈の誤ならん]一云阿之井(アシヰ)としてある。コブナグサは京都の名で、江州ではサゝモドキ、播磨、筑前ではカイナグサというとある。貝原益軒の『大和本草やまとほんぞう』諸品図の中にカイナ草の図があるが、ただ図ばかりで説はない。またこれにカリヤス(ススキ属のカリヤスと同名)の名もあるように書物に出ている。『本草綱目啓蒙ほんぞうこうもくけいもう』には※(「くさかんむり/盡」、第3水準1-91-34)草の条下に「此茎葉ヲ煎ジ紙帛ヲ染レバ黄色トナル」と出ている。八丈島でもこれをカリヤスと呼んで染料にすると聞いたことがあった。
 我国の本草学者などは中国でいう※(「くさかんむり/盡」、第3水準1-91-34)草をコブナグサに充てコブナグサの漢名としてこれを用いているが、これは誤りであって元来※(「くさかんむり/盡」、第3水準1-91-34)草とはチョウセンガリヤス(Diplachne serotina Link. var. chinensis Maxim.)の漢名である。そしてこの※(「くさかんむり/盡」、第3水準1-91-34)草は彼の『詩経』にある「※(「くさかんむり/碌のつくり」、第4水準2-86-27)竹猗々タリ」の※(「くさかんむり/碌のつくり」、第4水準2-86-27)竹で、中国には普通に生じ一つに黄草とも呼んでいる。『本草綱目ほんぞうこうもく※(「くさかんむり/盡」、第3水準1-91-34)草の条下に李時珍のいうには「此草緑色ニシテ黄ヲ染ムベシ、故ニ黄ト曰ヒ緑ト曰フ也」とある。また梁の陶弘景とうこうけい註の『名医別録めいいべつろく』には「※(「くさかんむり/盡」、第3水準1-91-34)草………九月十月ニ採リ以テ染メ黄金ヲスベシ」とあり、唐の蘇恭そきょうがいうには「荊襄けいじょうノ人煮テ以テ黄色ヲ染ム、極メテ鮮好ナリ」(共に漢文)とある。しかし日本人は恐らくこのチョウセンガリヤスを染料として黄色を染めた経験は誰もまだもってはいまい。
 日本の学者は古くから※(「くさかんむり/盡」、第3水準1-91-34)草をカイナのコブナグサにあて、コブナグサを※(「くさかんむり/盡」、第3水準1-91-34)草だと信じ切っているが、それは大間違いで※(「くさかんむり/盡」、第3水準1-91-34)草は前記の如くけっしてコブナグサではない。学者はそう誤認し、中国では上のように※(「くさかんむり/盡」、第3水準1-91-34)草が黄色を染める染料になるので、そこで日本で※(「くさかんむり/盡」、第3水準1-91-34)草と思いつめていたコブナグサが染め草となったものであろう。すなわち名の誤認から物の誤認が生じた訳で、つまり瓢箪から駒が出たのである。染料植物でないものが染料植物に化けたのである。が、これはそうなっても別にそこに大した不都合はない。なぜなら禾本諸草はたいてい乾かしておいて煮出せば黄色い汁が出て黄色染料になろうからである。
 前に還っていうが、日本の本草学者は王孫をツクバネソウとしている。しかしこの王孫は断じてツクバネソウそのものではない。そしてこのツクバネソウは日本の特産植物で、中国にはないからもとより漢名はない。