植物一日一題 牧野富太郎

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 明日アスヒノキになろうといって成りかけてみたが、ついに成りおうせなかったといわれる常緑針葉樹だ。相州の箱根山や、野州の日光山へ行けば多く見られる。この樹はマツ科に属し Thujopsis dolabrata Sieb. et Zucc. の学名を有するが、もとの学名は Thuja dolabrata L. fil. であった。そしてこの種名の dolabrata は斧状の意で、それは斧の形をして枝に着いているその葉の形状に基づいたものだ。
 この樹の枝にはアスナロノヒジキと呼んで、一種異様な寄生菌類の一種が着いて生活していて、その学名を Caeoma deformans Tubeuf と称するが、その最初の学名は Uromyces deformans Berk. et Ber. であった。また白井光太郎しらいみつたろう博士は Caeoma Asunaro Shirai の学名を設けたがこれは不用になった。すなわちこの種名の deformans は畸形あるいは不恰好というような意味で、それはその菌体の形貌に基づいたものである。そしてそれをアスナロノヒジキと呼んだが、しかしヒジキの名はあっても海藻のヒジキのように食用になるものではなく、単にその姿をヒジキに擬ぞらえたものに過ぎないのである。
 さてこの寄生菌そのものが初めて書物に書いてあるのは岩崎灌園いわさきかんえんの『本草図譜ほんぞうずふ』であろう。すなわちその書の巻九十にアスナロウノヤドリギとしてその図が出ている。けれどもその産地が記入してない。が、しかしそれは多分野州日光山かあるいは相州箱根山かの品を描写したものではないかと想像せられる。
 明治の年になって東京大学理科大学植物学教室の大久保三郎君(大久保一翁氏の庶子でかつて英国へ遊学し、帰朝して矢田部良吉やたべりょうきち教授の下で助教授を勤めていた穏やかな人だったが、明治二十五年矢田部教授が大学を非職になった時同時に大学の職を退き、後ち東京高等師範学校の教員となっていた)がこれを明治十八、九年(1885-6)頃に相州箱根山で採って、それを明治二十年(1887)三月発行の『植物学雑誌』第一巻第二号で「又同駅[牧野いう、箱根駅]ヨリ三町も熱海道ヘ出タル処ニひめあすなろう[牧野いう、普通のあすなろでこれをかくひめあすなろうと云うは誤りだ]一本(駅ヨリ行ク時ハ左側)アリ是モひめあすなろうナレバ別ニ面白キコトモナシトテ過行カバソレギリナリシガ其時思フニ縦令ひめあすなろうニモセヨ植物ノ散布ヲ調ブル時ノ為ニハ入用ナレバ一枝ヲ採ラント立寄リシニ葉ノ裏ニ二又ヅヽ二枚ヲ出セシモノヽ別ニ葉モ花ラシキ者モナキ寄生品ヲ見出セリ、アレハあすなろうノ葉ノ変化物ナラント云ヘリ当時余モ葉ノ変物ナルヤ全ク一種ノ寄生物ナルヤヲ確定スル能ハザリシガ其後再ビ箱根ニ赴タル時前述ノ木ト今少シ駅ニ近キ処ノ右側ノ小林中ニテ同物ヲ得タリ此度ハ其生ズル処ハ葉ノミニ限ラズ枝ニモ幹ニモ生ゼリ而シテ其全ク一種ノ寄生植物ニシテ年々新枝ヲ出ス頃ニハ前ニ栄ヘシ枝ハ枯レ行クモ全ク枯レ尽ルコトナキ多年生本ナルコトヲ見出セリ、而シテ子房ノ様ナルモノヲ発見セリ(此植物ニ付テハ他日再述ブルコトアルベシ)」と書いてある。しかし同君はそれを菌類とは気づかず、何か寄生の顕花植物だと想像し、前記のように「子房ノ様ナルモノモ発見セリ」と書いている。
 次で白井光太郎博士が明治二十二年(1889)七月発行の同誌第三巻第二十九号でさらに詳細にこれを図説考証した。その時に同博士はこれを一種の寄生菌だと断定し、それを Caeoma ママの種類であろうと考えられた。そしてこれにアスナロノヒジキなる新称をあたえ、「此物和名なし依て仮に之れをあすなろのひじきと名付けたり此名は伊豆新島の方言にひのきばやどりきつばきのひじきといへるを思ひて其の形の稍似たるより名付たるなり但し此の物は其の形やどりぎに似たるといえども其の性質全くやどりぎと異なり寄生菌の為めに起る一種の樹病なり之れをあすなろやどりきといはずしてひじきといへるはこれが故なり而して此のひじき状をなしたる物は寄生菌の為に異常の発育をなしたるあすなろの枝なり独逸にて此類の病を hexenbesen と名付く」と書かれた。
 ここに面白い私の巧名ばなしがある。それはそのアスナロノヒジキを相州箱根で採ったのは、右の大久保三郎君よりは私が一足先きであったことである。すなわちそれは明治十四年(1881)五月に私は東京からの帰途この箱根を通過した。時に私の年は二十歳であった。そしてその峠のところで尾籠びろうな話だがたまたま大便を催したので、路傍の林中へはいって用を足しつつそこらを睨め回していたら、ツイ直ぐ眼前の木の枝に異形な物が着いているのを見つけた。用便をすませて早速にその枝を折り取り標品として土佐へ持ち帰り、これを日本紙の台紙に貼付しておいた。後ち明治十七年(1884)になって再び東京へ出たとき、またそれを他の植物の標品と一緒に持参した。しかし久しい前のことで今その標品はいずれかへ紛失して手許に残っていないのが残念である。すなわちこのアスナロノヒジキはかくして私が初めてこれを箱根で採ったのである。大久保君が同山で採ったのはそれより七年も後ちで明治十八、九年頃であったのである。
 このアスナロノヒジキは一種の寄生菌、すなわちアスナロの害菌で、そのもとの学名 Uromyces deformans Berk. et Broom は初めてかのチャレンジャー航海報告書にその図説が発表せられたのである。すなわちその原標品は同船の採集者が、我が日本で採集し持ち帰ったものだ。西暦一八八七年我が明治二十年に発行になった英国の Journal of the Linnean Society 第十六巻に右の図(記事も共に)が載っているので、今これを写真に撮りここに転載した。
 この菌はまたアスナロに近縁異属のクロベ一名ネズコすなわち Thuja Standishii Carr.(=Thuja japonica Maxim.)にも寄生するのだが、この樹のものは瘠小で緑色を呈しすこぶる貧弱な姿を呈している。私はこれをクロベヒジキと新称し、その学名を Caeoma deformans Tubeuf var. gracilis Makino, var. nov.(Body smaller, slender, loosely ramose, green.)と定めたがこれは稀品であって、私はこれを野州日光の湯本で採った。
 
「アスナロウノヤドリギ=アスナロノヒジキ(『本草図譜』)(原図着色)」のキャプション付きの図

アスナロウノヤドリギ=アスナロノヒジキ
(『本草図譜』)(原図着色)

 
「Uromyces deformans Berk[#「Berk」は斜体]. et Broom[#「et Broom」は斜体]. 1-6(7-8は Puccinia corticioides Berk[#「Berk」は斜体]. et Broom[#「et Broom」は斜体].)〔アスナロノヒジキ=アスナロウノヤドリギ」のキャプション付きの図

Uromyces deformans Berk. et Broom. 1-6(7-8は Puccinia corticioides Berk. et Broom.)[Journal of Linnean Society, Bot. vol. ※(ローマ数字10、1-13-30)※(ローマ数字6、1-13-26) Plate ※(ローマ数字2、1-13-22)
アスナロノヒジキ=アスナロウノヤドリギ