植物一日一題 牧野富太郎

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 キノコの川村博士逝く
 
 理学博士川村清一かわむらせいいち君は日本で第一番の菌蕈学者すなわち斯界のオーソリティであったが、六十六歳を一期として胃潰瘍のため吐血し、忽焉易簀こうえんえきさくせられたのは惜しみてもなお余りがある。
 君は作州津山の生れで、松平家の臣であった。明治三十九年(1906)七月に東京帝国大学理学部植物科を卒業し、直ちに日本の菌類を研究する途を辿っていた。その間洋行もし、内外多くの文献も集め、また実地に菌類標本も蒐集して研究の基礎を築いた。今はこれらの書籍、標本はみな遺愛品となって遺るに至ったが、遺族の方はこれを日本科学博物館に献納したと聞いた。私は斯学のためまた博士生前の努力のため、ひとえにそれを安全に保存せられんことを切望する次第である。
 同君は自ら写生図を描くことが巧みであったので、他の図工を煩わすに及ばす、みな自分で彩筆を振った。書肆が競って中等学校の植物教科書を出版した華やかな時代には、同君に嘱して菌類の着色図を描いてもらいその書中を飾ったものだ。甲の教科書にも乙の教科書にもキノコの着色図版といえば、後にも先きにも川村君の腕を振う独壇場であった。
 君には二、三の優秀な菌類図書が既刊せられてはいるが、その多年にわたって自身に写生してためたものをまとめて一書となし、まず同君最後の作として東京本郷の南江堂でこれを印刷に付し、ヤット出来上がった刹那、昭和二十年の戦火で不幸にもそれが灰燼となって烏有に帰した。まことに残念至極なことで、確かに学界の大損失であるといえる。
 川村君は燃ゆる心を以て再挙を図っていた。幸いにその原稿の原図が戦火を免かれ、安全に残ったことを同君の書信で知ったので、私はその不幸中の幸運を祝福し、右菌類図説の再発行を祈っていた。
 そのうち昭和二十年八月十五日に終戦になったので、程もなく同君は山梨県東八代郡花鳥村竹居の疎開地から無事に都下滝野川区上中里十一番地の自宅へ還った。が、間もなく天、同君に幸いせずついに上に記したように、不幸にして不帰の客となった。
 同君は晩年には大いに菌類を研究して新種へ命名し、世に発表するような仕事には手を出さなく、もっぱら従来研究したものを守り、それをまとめて整理し世に公にすることに腐心せられていた。とにかく日本で晨星もただならざるほど少ない菌学者の一人を喪ったことはまことに遺憾の至りである。まだ死ぬほどの老齢でもなかったが、どうも天命は致し方もないものだ。
 同君と私とは、同君が大学在学当時以来すこぶる眤懇の間であったので、突如として同君の訃音をきいたときは、殊に哀愁の感を禁じ得なかった。