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マコモの中でもアヤメ咲く
ふるくから人口に膾炙した俚謡に「潮来出島の真菰の中であやめ咲くとはしほらしや」というのがある。今この原謡を『潮来図誌』で見ると、その末句の方が「あやめ咲くとはつゆしらず」となっている。
私は先きにこの謡を科学的に批評してみた。すなわちそれは昭和八年(1933)十一月に、東京の春陽堂で発行した『本草』第十六号の誌上であった。
全体アヤメにはじつは昔のと今のとの二つの植物があるので、この謡のアヤメがぐらついているところを探偵し、目を光らかした私の筆先きにチョッと来いと捕えられて、初の法廷でその黒白が裁判せられた。その判決によると、この謡は無罪とは行かなかった。しかしこれまで久しい年月の間これを摘発してその欠点を暴露せしめた人はなかったが、それの初任の裁判官は私であった。
この謡の中にあるアヤメは元来何を指しているのかというと、それはこれまで皆の衆が思っているようにアヤメ科なる Iris 属のアヤメ(従来日本の学者はこのアヤメを渓だとしているがそれはもとより誤りだ)を指したもんだ。そしてじつはこの美花を開くアヤメでなければ「しほらしや」が利かない。しかしそうするとこのアヤメが果たして真菰の中に生えていてもよいものかどうかの問題となるが、アヤメは元来乾地生で実際水中には生えないから、この点でこの謡は落第する。もしこのアヤメを昔のアヤメ、よく和歌に詠みこまれているアヤメグサ、すなわち今のショウブ(白菖蒲、一名水菖蒲、一名泥菖蒲)とすれば、これは水生植物であるから、マコモにまじって生えていたとてなんら差し支えはないのだが、困ることにはその花はけっして「しほらしや」と謡うことが出来なく、恐ろしく陰気でグロ(grotesque)であるのである。アチラ立つればコチラが立たず両方立つれば身が立たずの俗謡のようなジレンマに陥る。がしかしこのさいはそんな理屈ばった科学的な解釈をよけ、むつかしい見方をせずに、マコモの中でしほらしくアヤメ(Iris 属)の花が咲いているとこれまで通り通俗に解し裁判も執行猶予にしておけば、野暮にもならず物騒にもならずにすんで、やはりこの俚謡は情趣的によいことになる。「あんまりにアラを捜せば無風流」。
潮来町(昔は潮来を板子と書いた)は常陸行方郡の水郷で、霞ヶ浦からの水の通路北利根川にのぞみ、南は浪逆浦を咫尺の間に見る地である。昔は遊郭妓樓の艶めかしい三弦の音を聞きかつ聴きして、白粉の香にむせぶ雰囲気中に遊蕩する粋な別天地であったが、星移り物換った今日ではもはや往きし昔の面影もなく、ただゆかしい名を永く後の世に留めているにすぎない。その時分に婀娜な妓の可愛らしい朱唇から宛転たる鶯の声のようにほとばしり出て、遊野郎や、風流客を悩殺せしめた数ある謡の中には次のようなものがあった。
君は三夜の三日月さまよ、宵にちらりと見たばかり
恋にこがれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ螢が身を焦がす
恋の痴話文鼠に引かれ、鼠捕るよな猫欲しや
染めて悔しい藍紫も、元との白ら地がわしや恋ひし
日暮れがたにはたゞ茫然と、空を眺めて涙ぐむ
行くも帰るも忍ぶの乱だれ、限り知られぬ我が思ひ
余り辛さに出て山見れば、雲の懸からぬ山はない
はじめに出した「潮来出島の真菰の中であやめ咲くとはしほらしや」の中にある出島は直ぐ潮来町の真向いに見える小さい州の島で、蘆や真菰が生えていた。
今日のアヤメ、昔のハナアヤメ(陸地に生えていて水にはない)
今日のショウブ、昔のアヤメ
(水に生えていて陸地にはない)