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高野の万年草
『紀伊国名所図会』三編巻之六(天保九年[1838]発行)高野山の部に
万年草 御廟の辺に生ず苔の類にして根蔓をなし長く地上に延く処々に茎立て高さ一寸許細葉多く簇生ず採り来り貯へおき年を経といへども一度水に浸せば忽蒼然として蘇す此草漢名を千年松といふ物理小識[牧野いう、此小識はショウシと訓む]に見えたり俗に旅行の人の安否を占ふに此艸を水に投じ葉開けば其人無事也凋めば人亡しといふとぞ又日光山の万年艸は一名万年杉また苔杉などいひ漢名玉柏一名玉遂また千年柏といひて形状と異なり混ずべからず
と書いてある。
貝原益軒の『大和本草』巻之九(宝永六年[1709]発行)には
万年松 一名ハ玉柏本草苔類及衡嶽志ニノセタリ国俗マンネングサト云鞍馬高野山所々ニアリトリテ後数年カレズ故ニ名ヅク
とある。
小野蘭山の『大和本草批正』(未刊本)には
万年松(玉柏ノ一名ナリ) 玉柏ハ日光ノ万年グサ一名ビロウドスギト云石松ノ草立ナリ此ニ説ク形状ハ高野ノ万年グサ物理小識ノ千年松ナリ諸山幽谷ニ生ズ高野ヘ至モノ必ラズ釆帰ル山下ニテモ此草ヲウル其状苔ノ如シ高一寸許葉スギゴケノ如シ数年過タルモ水中ニヒタセバ新ナル如シ
と述べてある。
寺島良安の『倭漢三才図会』巻之九十七(正徳五年[1715])には
まんねんぐさ 玉柏 五遂 千年柏 万年松 俗云万年草 按ズルニ衡嶽志ニ謂ユル万年松ノ説亦粗ボ右ト同ジ紀州吉野高野ノ深谷石上多ク之レアリ長サ二寸許枝無クシテ梢ニ葉アリテ松ノ苗ニ似タリ好事ノ者之レヲ採テ鏡ノ奩[牧野いう、奩ハ字音レン、鏡匣である]ニ蔵メテ云ク霊草ナリ行人ノ消息ヲ知ラント欲セバ之レヲ水[牧野いう、は字音ワン、鉢、椀、皿である]ニ投ジテ之レヲトフ葉開ケバ即チ其人存シ凋バ即チ人亡キ也ト此言大ニ笑フベシ性水ヲ澆ゲバ能ク活スルコトヲ知ラザレバナリ
と書いてある。
次に享保十九年(1734)刊行の菊岡沾涼の『本朝世事談綺』巻之二には
万年草、高野山大師の御廟にあり一とせに一度日あってこれを採と云此枯たる草を水に浮めて他国の人の安否を見るに存命なるは草。水中に活て生たるがごとし亡したるは枯葉そのまゝ也
とある。
次に小野蘭山の『本草綱目啓蒙』巻之十七(享和三年[1803]出版)には、玉柏(マンネングサ、日光ノマンネングサ、マンネンスギ、ビロウドスギ)の条下に
又別ニ一種高野ノマンネングサト呼者アリ苔ノ類ナリ根ハ蔓ニシテ長ク地上ニ延ク処処ニ茎立テ地衣ノ如キ細葉簇生ス深緑色ナリ採リ貯ヘ久シクシテ乾キタル者水ニ浸セバ便チ緑ニ反リ生ノ如シ是物理小識ノ千年松ナリ
と述べている。
また『紀伊続風土記』「高野山之部」に万年草が出ていて次の通り書いてある。
万年草
古老伝に此草は当山の霊草にて遼遠に在て厥死活弁じがたきをば此草を水盆に浮るに生者なれば青翠の色を含み若没者なれば萎めるまゝなりとぞ今現に検するに御廟の辺及三山の際に蔓生す毎年夏中是を摘みて諸州有信の族に施与の料とせり其長四五寸に過ぎず色青苔の如し按ずるに後成恩寺関白兼良公の尺素往来に雑草木を載て石菖蒲、獅子鬚、一夏草、万年草、金徽草、吉祥草といへり爾者此草当山のみ生茂するにもあらず和漢三才図会に本草綱目云玉柏生石上如松高五六寸紫花人皆置盆中養数年不死呼為千年柏万年松即石松之小者也(中略)五雑組云楚中有万年松長二寸許葉似側栢蔵篋笥中或夾冊子内経歳不枯取置沙土中以水澆之俄頃復活或人云是老苔変成者然苔無茎根衡嶽志所謂万年松之説亦粗与右同紀州高野深谷石上多有之長二寸許無枝而梢有葉似松苗[牧野いう、此辺『倭漢三才図会』の書抜きだ]といひ和語本草にも玉柏石松を載たれども其味のみを弁じて貌姿を論せず良安本草綱目の万年松を万年草として当山万年草に霊異あることを草性を知らずといへるは嗚呼の論のみ[牧野いう、『紀伊続風土紀』の著者の此言かえって嗚呼の論のみだ且万年草を霊草と云う笑うべきの至りである]彼万年松は紫花あり此万年草花なし爾者雑組衡嶽志にいふ万年松は別の草ならん尺素往来にいふ万年草は当山の霊草ならん又当山にても当時蔓延滋茂せるは彼万年松の類にて右老伝の霊草は御廟瑞籬の内に希に数茎を得といふ説もあれば尚其由を尋ぬべし
また同書物産の部は小原良直(八三郎)の書いたものだがその中に左の記がある。
千年松(物理小識○高野山にて万年草といふ他州にては玉柏を万年草といふ故に此草を高野の万年草といひて分てり)
高野山大師の廟の辺及三山の際に蔓生す乾けるものを水中に投ずれば忽蒼翠に復す故に俗間収め貯へて旅行の安否を占ふ
この高野のマンネンソウは蘚類の一種で Climacium japonicum Lindb. の学名を有するもので、国内諸州の深山樹下の地に群生している。そして高いものは三寸ほどもある。
岩崎灌園の『本草図譜』巻之三十五に二つのコウヤノマンネングサの図が出ているが、その上図のものはハゴノコウヤノマンネングサ(一名フジマンネングサ、コウヤノマンネングサモドキ、ホウライソウ)すなわち Climacium ruthenicum Lindb.(=Pleuroziopsis ruthenica Lindb.)で、その下図のものが本当のコウヤノマンネングサすなわち Climacium japonicum Lindb. である。大沼宏平君が同書の学名考定でこのコウヤノマンネングサの図をミズスギすなわち Lycopodium cernuum L. と鑑定しているのはまさしく誤鑑定で、その図の枝の先端が黄色に彩色してあるのは、これは疑いもなく枝先きが枯れたところを現わしたもので、それはけっしてその胞子穂ではないのである。
ズット以前のことであるが、すこぶる頭の働いた人があって、このコウヤノマンネングサを集め、その乾いたものを生きたときのように水で復形させ、これを青緑色の染粉で色を着け、これを一束ねずつ小さい盆栽とし、それを担って諸国を売り歩き大いに金を儲けたことがあった。そのときその行商人の口上はなんといったか今は忘れた。
近代の学者は時とすると、この草をコウヤノマンネンゴケとしてあるが、じつはこれはコウヤノマンネングサが本当である。またコウヤノマンネンソウとしたものもある。