植物一日一題 牧野富太郎

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 『草木図説』のサワアザミとマアザミ
 
 飯沼慾斎いいぬまよくさいの著『草木図説そうもくずせつ』巻之十五(文久元年[1861]辛酉発行、第三帙中の一冊)にその図説が載っているサワアザミの図と、その直ぐ次に出ているマアザミの図とは、それが確かに前後入り違っていることはこれまで誰も気のついた人は全くなかった。これはサワアザミの説文に対して在る図を移してマアザミの説文へ対せしめておけばよろしく、またマアザミの説文に対して在る図を移してサワアザミの説文へ対せしめておけばそれでよろしい。そうすればここに初めてサワアザミの説文がサワアザミの図に対して正しくなり、またマアザミの説文がマアザミの図に対して正しくなって、そこで両方とも間違いを取り戻して正鵠を得たことになる。そしてこの図の入り違いは多分偶然に著者がその前後を誤ったものであろう。今かく正してみると、従来植物界で用い来ているサワアザミとマアザミとの和名の置き換えを行なわねばならない結果となる。すなわち Cirsium Sieboldi Miq. はマアザミではなくてサワアザミ一名キセルアザミとせねばならなく、また C. yezoense Makino はサワアザミではなくてマアザミと改めねばならぬのである。
 近江の国伊吹山下の里人が常に採って食用にしているといわれる右のマアザミの実物を知りかつその形状を見たく、よって当時京都大学に在学中の遠藤善之君を煩わし、実地についてそのマアザミを捜索してもらった。同君は親切にも私のためにわざわざ京都から二回も伊吹山方面へ出掛けて探査し、時にそれが伊吹山で見つからないので更に進んで美濃方面に行きついに伊吹山裏の方の山地においてこれを見出し、地元の人にそのマアザミの方言をも確かめ、そしてそこで採集した材料を遠く東京へ携帯して私に恵まれた。私は嬉しくもその渇望していた生本現物を手にしこれを精査するを得、初めてそのマアザミの形態を詳悉することが出来、大いに満足してこのうえもなく悦び、もってひとえに遠藤君の厚意を深謝している次第である。
 マアザミとはアザミの意であろう。この種は往々家圃に栽えて食料にするとあるから、このマアザミはあるいはアザミというのが本当ではなかろうかと初めは想像していたが、しかしそれはそうではなくてやはりマアザミがその名であった。このマアザミの葉は広くて軟らかいからその嫩葉は食用によいのであろう。これに反してサワアザミの方は葉が狭く分裂して刺が多くかつその質が硬いから食用には不向きである。ゆえに『草木図説』にもなんら食用のことには触れていない。そしてこのサワアザミは山麓原野の水傍あるいは沢の水流中などによく生えているが、山間渓流の側などにはあまり見ない。
 小野蘭山おのらんざんの『本草綱目啓蒙ほんぞうこうもくけいもう』巻之十一「大薊小薊」の条下に「鶏項草ハ別物ニシテ大小薊ノ外ナリ水側ニ生ズ陸地ニ生ズ和名サワアザミ葉ハ小薊葉ニ似テ岐叉多ク刺モ多シ苗高サ一二尺八九月ニ至テ茎頂ニ淡紫花ヲ開ク一茎一両花其花大ニシテ皆旁ニ向テ鶏首ノ形チニ似タル故ニ鶏項草ト名ク他薊ノ天ニ朝シテ開クニ異ナリ」と述べてサワアザミが明らかに書かれている。
 サワアザミに右のようにかつて我が本草学者があてている鶏項草ケイコウソウは宋の蘇頌そしょうの著わした『図経本草ずきょうほんぞう』から出た薊の一名であるが、これは単にその文字の意味からサワアザミにあてたもので、もとよりあたっていない別種の品であることは想像するに難くない。そして『本草綱目』で李時珍がいうには「鶏項、其茎ガ鶏ノ項ニ似ルニ因ルナリ」(漢文)とある。すなわち項はいわゆるウナジで後頭のことである。しかるに我国の学者は往々これを誤って鶏チョウ草と書いているのは非である。
 文化四年(1807)出版の丹波頼理たんばよりよし著『本草薬名備考和訓鈔ほんぞうやくみょうびこうわくんしょう』にはサワアザミが正しく鶏項草となっているが、文化六年(1809)発行の水谷豊文みずたにほうぶん著『物品識名ぶつひんしきめい』には鶏頂草となっている。
 
「正名サワアザミ『草木図説』に間違えてマアザミの図となっている」のキャプション付きの図

正名サワアザミ
『草木図説』に間違えてマアザミの図となっている

 
「正名マアザミ『草木図説』に間違えてサワアザミの図となっている」のキャプション付きの図

正名マアザミ
『草木図説』に間違えてサワアザミの図となっている