植物一日一題 牧野富太郎

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 海藻ミルの食べ方
 
 海藻のミルは普通に水松(『本草綱目』水草類)と書いてあるが、果たしてそれがあたっているのかどうかはすこぶる疑わしい。中国の昔の学者の書いた原文ははなはだ簡単で、それが果たしてミルであるのか、じつのところよくは判らないのである。また俗に海松とも書いてあるが、これは中国の昔の学者が「水松、状而可」の文に基づいて製した名であろう。
 このミルの学名は前によく Codium mucronatum J. Ag. が使われたが、今日では Codium fragile HariotAcanthocodium fragile Sur.)が用いられている。この種名の fragile は「質脆ク破損シ易イ」ことを意味する。本品は純緑色の海藻で、浅い海底の岩に着生し、三寸ないし一尺ばかりの長さがあって両岐的に多数に分枝し、その枝は円柱状で、質は羅紗ラシャのようである。そしてこのミルの語原は全く不明であるといわれる。
 源順みなもとのしたごうの『倭名類聚鈔わみょうるいじゅしょう』に「海松、崔禹錫さいうしゃく食経云、水松状如松而無葉、和名美流」とある。『延喜式えんぎしき内膳司式ないぜんししきに「海松二斤四両」とあり、また『万葉集』の歌に「沖辺には深海松フカミルみ」とあるのをみても、遠い昔に当時既に食用にしたことが判るが、それならそれをどういう風に調理して食したのか詳かでないけれど、昔は凝った料理の一つであったらしい。今ここに近代の食法を次に載せてみる。しかし私自身は一度もこれを食した経験がないので、その食法が分らない。そこで二、三大方の諸氏に教えを乞うたところ、みないずれも親切な垂教を賜ったので、その食法が判明し大いに喜んでいるのである。私も今度幸いにミルに出逢ったら味ってみなければならないと、今からその舌ざわりや味わいやらの想像を画いている。
 理学士恩田経介おんだけいすけ君からの所報によれば「私がミルを食べましたのは、志摩半島の浜島でした、あそこでは毎年の棚機たなばたにはミルを食べる慣例だとのことでした、食べたのはニク鍋でちょっといためてスミソで食べました、極極若いのだと生マで酢味噌をつけてたべるのがよいとのことです、見たよりもゴソゴソしなかったと思っています、うまいとは思いませんでしたが食べられるものだ位でした」とあった。
 理学博士武田久吉たけだひさよし君からの返翰によれば、「御下問の件小生自身何の経験も御座いません」とて、岡村金太郎おかむらきんたろう博士の『海藻と人生』と遠藤吉三郎きちさぶろう博士の『海産植物学』とを引用して報ぜられた。
 右遠藤博士の『海産植物学』は明治四十四年(1911)に東京の博文館で発行になった書物だが、今それによると「みるヲ食用ニ供シタルハ本邦ニ在リテハ其由来甚ダ遠キモノノ如ク現今却テ之レヲ用ウルコト少ナシ、箋註倭名類聚抄ニ云フ、海松、見延喜臨時大甞祭図書寮玄番寮民部省主計寮大蔵省宮内省大膳職内膳司主膳監等式、又見賦役令万葉集、云々、之レニテ判ズレバ古ヘハみるヲ朝廷ニ献貢シタリシモノナルベシ、古歌ニモみる、みるぶさ、みるめナド多く詠メリ、又昔ヨリみるめ絞リト称シテ此植物ノ形ヲ衣服ノ模様トナシ、或ハ陶器ノ画等ニモ見ルコト今日ニ至ルモ変ラズ其果シテ孰レノ世ヨリ斯クノ如キコト始マリシヤ明カナラズト雖ドモ少クモ千数百年ノ昔ヨリナルベシ、又此ハ海藻ニシテ美術的紋様ニ用イラルルモノノ唯一ノ例ナリ」、また「みる類ヲ食用ニ供シタルハ往古ヨリ行ハレシモノニシテ弘仁式ニ尾張ノ染海松ヲ正月三日ノ御贄おんべニ供ストアリ而シテ現今本邦ニテ主トシテ用イラルルハみる及ビひらみるノ二者ナリ是等ハ生食セラルルコト稀ニシテ多クハ晒サレテ白色ニ変ジタルヲ乾シ恰モ白羅紗ノ如クナルヲ販売セリ、之レヲ水ニ浸シ三杯酢ヲ以テ食フ或ハ夏期ニ於テ採収シタル時ハ灰乾シトシ又ハ熱湯ヲ注ギテ後蔭乾シトス之レヲ用ウルニハ熱湯ニ投ジテ洗滌スルヲ可トス」と出ている。
 なお同じく遠藤博士の『日本有用海産植物』(明治三十六年[1903]博文館発行)にはミルの効用として「ミル、ヒラミル等は淡水と日光とに洒すときは白色の羅紗の如くなる之れを調理して食用とすナガミル、タマミル亦此の如くして可なり但し其産額前二者の如く多からざるのみ」と書いてある。
 また明治四十三年(1910)博文館発行の妹尾秀美ひでみ、鐘ヶ江東作、ひがし道太郎三氏の著『日本有用魚介藻類図説』によれば「みるの種類は総て四五月より七八月の頃採収し灰乾はいぼしとなして貯ふ、使用するに際し熱湯に投じて洗滌し吸物又は三杯酢となして食用に供す又採収したるものを淡水にて善く洗ひ晒白して貯蔵する事あり。現今みるを食用に供する事多からざれども、延喜式巻第二十三部民部下交易雑物伊勢国海松五十斤参河国海松一百斤紀伊国海松四十斤、同書巻第二十四主計上凡諸国輪調云々海松各四十三斤但隠岐国三十三斤五両凡中男一人輸作物海松五斤志摩国調海松安房国庸海松四百斤云々とあり、又明月記に元久二年二月二十三日御七条院此間予可儲肴等持参令取居之長櫃一土器居小折敷敷柏盛海松覆松とあれば昔時は貴人も食用に供せられたるならん」「又海藻の種類は多し模様として応用得べきもの少からず然れども古来諸種の工芸品の模様に応用せられたるものは実にみるのみなりみるは其形状のみならず体色も用ひられてみる色といへる緑に黒みある色をも造られたり」とある。
 大正十一年(1922)に東京の書肆内田老鶴圃で発行になった岡村金太郎博士の『趣味から見た海藻と人生』に述べてあるところを抄出してみると、「ミルは今でも少しは食用とし、殊に九州や隠岐の国あたりでは其若いのを喰べる。先年自分は九州のかねヶ崎[牧野いう、筑前宗像郡、海辺の地にダルマギクを産する]で、特に望んで喰わせてもらったが、海から取って来たのをよく洗って、鉄鍋を火にかけて、その上でなまのミルをあぶると、茹菜ゆでなのようになるのを、酢味噌などで喰べる工合は、全く茹菜と同じである。昔は今日よりもよほどミルの用途がひろかったとみえて、越後名寄巻十四水松みるの条に「ム時ハムクムクスルナリ生ニテモ塩ニ漬ケテモ清水ニ数返洗フベシ其脆ク淡味香佳ナリ酢未醤スミショウ或ハ湯煮ニスレバ却テ硬シテ不可食六七月ノ頃採ルモノ佳ナリ」とある。それから古い書物に海松の貯蔵法があるが、それに「ざっと湯を通し寒の水一升塩一合あはせ漬置くべし色かはらずしてよく保つなり」とある。また灰乾として貯えてもおくとみえる。これを食するのは、その色の美しさと香気とを愛したものであろう。任日上人の句に「蓼酢たですとも青海原をみるめかな」とあるのは、自分の考えでは、青海原を蓼醋とみなしてそれに云いかけた洒落であろうと思うが、多分海松は蓼醋などで喰べたものであろう。また其角の句に「海松みるの香に松の嵐や初瀬山」とあるのも、このへんのこころであろう。寛永の『料理物語』に「みる さしみ」とあるのは、刺身として喰うというのか刺身のつまとしてというのか、である。
 次に現下我国海藻学のオーソリティー、北海道帝国大学の理学博士山田幸男君からの所報によれば「小生数十年前薩摩の甑島に於てそのスミソアエと致したるものを漁師の家にて馳走になりし事を覚えおり候、又其後これは七八年前かと存候が東京芝、芝園橋付近の銀茶寮とか申す料理屋にて日本料理の献立表に[ミルの吸物]とありしを覚えをり候たゞし此際は惜くも本日は材料が揃わずとの理由とかにて実物を味わずに了い候、これにより少くもスミソあえ及汁のミと致す事はたしかと存じ候尚岡村先生の『海藻と人生』に矢張り九州のスミソアエの事等見えおり候」とあった。
 要するにミルの料理としては、三杯酢かあるいは酢味噌和えかが普通一般の食法であることが知られる。
 文化元年(1804)出版、鳥飼洞斎とりかいどうさいの『改正月令博物筌かいせいがつりょうはくぶつせん』料理献立欄に[二月(牧野いう、陰暦)吸物]まて貝、みる、わりこせう、[四月吸物]まききすご、みる、[七月吸物]花ゑび、みる、わりさんせう、[九月吸味]御所がき、岩たけ、くるみ、きくな、みる、わさびすみそ、[十月清汁すまし]実くるみ、みる、[十一月吸物]ひらたけ、みる、と出ている。
 ミルクイというかいがあって、またミルガイともミロクガイとも称えられ、その学名は Tresus Nattalii Cornad. である。この介の一端から突出した多肉な水管にミルが寄生し、その状あたかもこの介がミルを食いつつあるように見えるので、それでこの介はミルクイ(ミル喰イ)と呼ばれる。この介はただその水管の肉だけを食用とし、その味がすこぶるうまいところから、これを中国の書物の西施舌セイシゼツ(西施は中国古代の美人の名)にあてているが、それが果たしてあたっているのかどうかよく判らない。[補記]昭和二十二年七月二十三日に東京世田谷区、梅ヶ丘小学校の教員川村コウ女史が相州江ノ島の海浜で、漁夫の鰯網いわしあみへ着いて揚って来たミルを採集してきて恵まれたので、早速これを清水で洗い、取りあえずその新鮮なのを先ず生食してみた。口ざわりは脆くてシャギシャギはするが塩味があって存外食べられる。そして海藻の香はあるが、別に特別な味はない。次いでこれを酢醤油に漬けて味わってみたが、そうするとたちまちミルが多少縮め気味で硬わばり、かえって生食するよりは不味を感ずる。それはちょうど『越後名寄えちごなよせ』に記してある通りである。このように私は生まれて初めてミルを味わってみたが、あまり感心する品ではなく、まず昔からのことを回想し趣味としてこれを口にする程度のものである。
 ミルの語原は不明だといわれているが、私の愚劣な考えでは、それはあるいはビルもしくはビロから転訛したものであろうと思われる。すなわち生鮮なミルを静かに振ってみると弾力があって、ビルビルビロビロとするから、そのビルあるいはビロが音便によってついにミルになったのではなかろうかと想像するが、どんなもんだろうか。
 ミル属(Codium)には多くの品種があって、いずれも食用になるのであろう。昭和九年(1934)六月に東京の三省堂で出版した岡田喜一よしかず君の『原色海藻図譜』によれば、次の種類が原色写真で出ているからそれらを知るには極めて便利である。すなわちハイミル、ヒゲミル、ネザシミル、サキブトミル、ナガミル、クロミル、ミル、モツレミル、タマミル、ヒラミル、コブシミル、ならびにイトミルの十二品が挙がっているが、その中でナガミルは岡山でクヅレミル、阿波でサメノタスキ、相模でアブラアブラというとある。同じく昭和九年十月に東京の誠文堂で発行したひがし道太郎君の『原色日本海藻図譜』にはナガミルの条下に「邦産十数種種のミル中最も長大なものであって全長四十五尺に達するものもある」、「九州より千葉県に至る太平洋岸に産する、殊に湾入せるところの四五尋の深所に多い、真珠貝の養殖場に繁殖し長大なる体は真珠貝を覆い死に至らしむる事があると云われて居る」と書いてある。ヒラミルは国によりラシャノリといわれる。