インゲンマメ
今日世間でいっているインゲンマメには二通りの品種があって、一つは前に日本に渡ったインゲンマメ、一つはそれより後に渡ったインゲンマメである。元来インゲンマメは昔山城宇治の
隠元禅師がもって来たと称する本当のインゲンマメは Dolichos Lablab L. という学名、Hyacinth Bean または Bonavist または Lablab という俗名のもので、これに白花品と紫花品とがあって共にインゲンマメと総称している。そしてその紫花のものを特にフジマメ、カキマメ(垣豆の意)、ツバクラマメ、ガンマメ、ナンキンマメ、ハッショウマメ、センゴクマメ、サイマメ、インゲンササゲ、トウマメといい、この漢名は鵲豆である。またその白花のものをヒラマメ(扁豆)、アジマメ、トウマメ、カキマメと呼び、その漢名は
関西地方では多くこれを圃につくり、その莢を食用に供していて、普通にインゲンまたはインゲンマメと呼んでいる。
今日一般にいっているインゲンマメ、それは贋のインゲンマメは Phaseolus vulgaris L. の学名を有し、すなわち俗に Kidney Bean(腎臓豆の意でその豆の形状に基づいた名)といわれているものである。従来これに菜豆の漢名が用いられているが、それは誤りで、この菜豆は何か別の豆の名であると断言する理由を私は掴んでいる。これは昔からある漢名で、東洋へこの贋のインゲンマメすなわち Phaseolus vulgaris L. が来たずっと以前からの名であるから、その菜豆はけっしてこの豆の漢名にはなり得ないようだ。そして我国の学者がこれを贋のインゲンマメの名としたのは、満州での書物『
この贋のインゲンマメ(Phaseolus vulgaris L.)は上に書いた隠元禅師将来の本当のインゲンマメ(Dolichos Lablab L.)よりはずっと後に日本へ渡来したものである。そしてその初渡来はおよそ三三五年前で、右の本当のインゲンマメの渡来より後れたことおよそ五十年ほどである。ゆえに隠元禅師が日本に来たときには、まだその贋のインゲンマメは我国に来ていなかったから、この豆はなんら隠元禅師とは関係はない。
今日一般に誰も彼もいっているインゲンマメ(贋の)は海外から初め江戸へ先ずはいって来たものらしい。多分外船がもたらしたものであろう。そしてそれが江戸を中心として漸次に関西ならびにその他の諸地方へ拡まっていったもののように想われる。そして江戸をはじめその後諸方でいろいろの方言が生まれたものであって、次のような多くの称えがある。すなわちそれは江戸ササゲ、トウササゲ、五月ササゲ、三度ササゲ、仙台ササゲ、朝鮮ササゲ、ナタササゲ、カマササゲ、カジワラササゲ、銀ササゲ、銀フロウ、銀ブロウ、フロウ(同名あり、不老の意)、二度フロウ、甲州フロウ、江戸フロウ、二度ナリ、信濃マメ、マゴマメ、八升マメであるが、江戸ではまたこれをインゲンマメと呼んでいた。
この五月ササゲと同属で従来ベニバナインゲンといっていたものがある。私は信州などでの方言によっていまこれをハナササゲという佳名で呼んでいる。この赤花品をつくっておくと往々にしてその白花品が同圃中で赤花の母品に交って生ずるが、これすなわちシロバナササゲ(Phaseolus coccineus L. var. albus Bailey)であって、単にその花が白いばかりでなくその豆もまた白い。この種は寒い地方に適してよく稔るのであるが、暖地につくると不作である。