植物一日一題 牧野富太郎

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 麝香草の香い
 
 諸地の山中にはジャコウソウと称する宿根草があって、クチビルバナ科に属し、夏に淡紅紫色の大形の唇形花を茎梢葉腋の短き聚繖梗にひらき、茎は叢生直立し方形で高さ三尺内外もあり、葉はひろくして尖り対生する。その学名を Chelonopsis moschata Miq. と称する。
 小野蘭山の口授した『本草記聞ほんぞうきぶん』芳草類、薫草(零陵香)の条下に「サテ此ノ本条[牧野いう、薫草零陵香を指す]ノコト前方ヨリ山海経ノ説ニヨリテ麝香草ヲ当ツ、ソレモトクト当ラズ、是モ貴船ニ多シ宿根ヨリ生ズ一名ワレモカウ(地楡又萱ノ類ニ同名アリ)苗ノ高サ一尺五六寸斗紫茎胡麻葉ニ似タリ葉末広シ細長クアラキ鋸歯アリ方茎対生八九月頃葉間ヨリ一寸程ノ花下垂シテ生ズ薄紫也一茎ニ一輪胡麻ノ花形ニ似テ大也桐ノ花ヨリ小也花※(「くさかんむり/亭」、第4水準2-86-48)余程大ナル鈴ノ形也夢溪筆談ニモ鈴子香鈴々香ノ一名アリ花ノ形ニヨリテ名ヅクル也鈴子ノアルヲ択ムベシトアリ風ニツレテ麝香ノ匂ヒアリ、チギリテハ却テ臭気アリ時珍ノ説ノ如ク土零陵香ニ当ルヨシ」と述べ、また蘭山の『本草綱目啓蒙』巻之十、芳草類の薫草零陵香の条下には「又山海経ノ薫草ヲジヤカウサウニ充ル古説ハ穏カナラズ、ジヤカウサウハ生ノ時苗葉ヲ撼動スレバ其気麝香ノ如シ葉ヲ揉或ハ乾セバ香気ナシ漢名彙宛詳註ノ麝草ニ近シ」と書いてある。
 同じく小野蘭山口授の『本草訳説やくせつ』(内題は『本草綱目訳説』)には「恕菴じょあん[牧野いう、松岡恕菴]先生秘説(蘭品)ニハ山海経ノ薫草ヲ和ニ麝香草ト称ルモノニ充ツ未的切ナラズ麝香草ハ生ニテ動揺スレバ香気アリ乾セバ香気ナシ漢名麝草(王氏彙宛)」と出ている。
 実際この草は麝香の香いがすると誇りやかに言い得るほどのものではない。それが多数生えている所に行きその苗葉を揺さぶり動かすと、じつに微々彷彿としてただ僅かに麝香の香いの気がするかのように感ずる程度にすぎなく、ジャコウソウという名を堂々とその草に負わすだけの資質はない。『花彙かい』のジャコウソウの文中にはこれを誇張して述べ「茎葉ヲ採リ遠ク払ヘバ暗ニ香気馥郁タリ宛モ当門子ジャカウノ如シ親シク搓揉モムスレバ却テ草気アヲクサシアリ」と書いてある。
 この植物について研究したミケル(Miquel)氏は、これを新属のものとして Chelonopsis(Chelone ママすなわち亀頭バナ属に似たる意)属を建て、そして Chelonopsis moschata Miq. の新学名を設けた。この種名の moschata は麝香ノ香気アルの意で、その事に触れれば麝香の香いがする(attactu odori moschati)という事柄に基づいてこれを用いた訳だ。日本にはこのジャコウソウの品種が三つあって、それはジャコウソウ、タニジャコウソウ(Chelonopsis longipes Makino)、アシタカジャコウソウ(Chelonopsis Yagiharana His. et Mat.)である。
 右ジャコウソウ属すなわちミケル氏のつけた Chelonopsis の名称を誘致した北米産 Chelone ママ(亀頭バナ属、亀頭は花冠の状に由る)には属中に Chelone Lyonii Pursh.(ジャコウソウモドキ)と Chelone glabra L. と Chelone obliqua L. があるが、ともに西半球北米の地に花さく宿根草である。そして右ジャコウソウモドキは園芸植物となって我国にも来り、時々市中の花店へ切り花として出ていた。石井勇義君の『原色園芸植物図譜』にはその原色図版がある。
 上の『山海経せんがいきょう』にある薫草は、蓋し零陵香の一名なる薫草と同じものであろう。またこれは※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)草ともいわれる、すなわちクチビルバナ科のカミメボウキ(神眼箒の意)で Ocimum sanctum L. の学名を有し、メボウキすなわち Ocimum Bacilicum L. と姉妹品である。
 
「ジャコウソウ(Chelonopsis moschata Miq[#「Miq」は斜体].)写生の名手|関根雲停《せきねうんてい》筆、牧野結網《まきのけつもう》修正」のキャプション付きの図

ジャコウソウ(Chelonopsis moschata Miq.)
写生の名手関根雲停せきねうんてい筆、牧野結網まきのけつもう修正