植物一日一題 牧野富太郎

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 紀州高野山の蛇柳
 
 紀州の国は名だたる高野山の寺の境内地に、昔から蛇柳ジャヤナギと呼ばれている数株のヤナギの木があって、近い頃まで生存し有名なものであったが、惜しいことには今枯れたとのことを聞いた。その幹は横斜屈曲して枝椏を分ち葉を着け繁っている。先年私はこの高野山に登って親しくこれを見かつ枝を採って標品に作ったことがあった。
 理学博士白井光太郎君はかつて我国のヤナギ類について研究したことがあった。その時分高野にこの柳を採集して検討し、その名を該柳にちなんでそのままジャヤナギと定められたので、爾後この名でこのスペシーズのヤナギを呼ぶことになっている。その学名は Salix eriocarpa Franch. et Sav. である。
 右の蛇柳について同博士(当時は理学士)は明治二十九年(1896)六月発行『植物学雑誌』第十巻第百十二号に左の通り書かれている。すなわち、
 

   高野山ノ蛇柳
 蛇柳ハ高野山上大橋ヨリ奥ノ院ニ至ル右側ノ路傍ヲ去ル十間許ノ処ニアリ高野山独案内ニ「蛇柳の事」「此柳偃低えんていして蛇の臥せるに似たり依之名くる与猶子細ありと云ふ尋ぬべし云々」トアル者是ナリ廿八年[牧野いう、明治]八月十三日此処ヲ過ギリ此柳ヲ採集セルトキモ枝葉ノミニテ花部ヲ欠キシヲ以テ帰京後同処小林区署山本左一郎氏ニ依頼シ本年五月其花ヲ得タリ花ハ皆雌花ナリ之ヲ検スルニ花穂ニ小柄ヲ具ヘ柄上二乃至四小葉アリ小苞ハ緑色卵円形ニシテ外面絨毛ヲ密布ス子房ハ卵形ニシテ外面絨毛ヲ帯ビ先端ニ短柱ヲ具ヘ柱頭長ク二分ス花穂ノ全長四五分許ニシテ其本ニ倒卵形乃至匙形ノ小葉ヲ対生スルノ状十文字鎗ノ穂ニ似タリ葉ハ細長披針形ニシテ先端尖リ周辺細鋸歯アリ面ハ青ク背ハ淡ニシテ白粉ヲ塗抹セルガ如キ趣アリ長三四寸許新枝ハ浮毛ヲ帯ブレドモ旧枝ニハ毛ナシ予先年此種ヲ大隅佐多付近ニテ採リ昨年四月常州筑波山下ニテモ採レリ筑波山ニアリシ樹ハ直径壱尺余ニシテ直聳シ喬木ヲ成セリ此種ノ形状ハ好ク Salix eriocarpa Fr. et Sav. ニ符号ス此ニ相違ナシト考フ昨年学友某亦筑波山下ニテ之ヲ採集シ此たちしだれやなぎノ新称ヲ命セラレタルヤニ聞キシガたちしだれナル名ハ意義ニ於テモ少シク通ゼザルガ如キ嫌ナキニ非ザレバ予ハ寧ロ蛇柳ヲ以テ此種ノ普通名トナサント欲スルナリ

 
である。
紀伊続風土紀きいぞくふどき』の「高野山之部」に出ている蛇柳の記は次の如くである。
 

  ※(「虫+也」、第3水準1-91-51)柳[牧野いう、※(「虫+也」、第3水準1-91-51)は蛇と同字でヘビである]
 息処石の南大河南岸に洲あり古柳蟠低して異風奇態あり夫木集に知家朝臣の歌に咲花に錦おりかく高野山柳の糸をたてぬきにしてといふ此歌にては※(「虫+也」、第3水準1-91-51)柳のことあらわれず扶桑名勝詩集に宕快法印の作とて高野山十二景の中に雪中※(「虫+也」、第3水準1-91-51)柳の題のみあり本州旧跡志に※(「虫+也」、第3水準1-91-51)柳大塔の東廿八町にあり昔し此所に大※(「虫+也」、第3水準1-91-51)ありて妖をなせり時に弘法持呪しければ※(「虫+也」、第3水準1-91-51)他所にうつりて其跡に柳生ぜり因て※(「虫+也」、第3水準1-91-51)柳といふとあり又此柳偃低大※(「虫+也」、第3水準1-91-51)に似たれば※(「虫+也」、第3水準1-91-51)柳といひ又大師の加持力にて※(「虫+也」、第3水準1-91-51)を変じて柳とならしむといふ説あれどもいぶかし近世雲石堂十八景の中に春日※(「虫+也」、第3水準1-91-51)柳の詩あり略す又俗諺に昔し此所に大※(「虫+也」、第3水準1-91-51)ありて人を害す大師これを悪み給ひて竹の箒もて大滝へ駈逐し玉ふゆへ大※(「虫+也」、第3水準1-91-51)の怨念竹の箒に残れりそがゆへに当山の竹の箒を禁ず又駈逐の時後世若此山にて竹の箒を用ば其時に来り棲めと誓約し玉ふゆへとも云ふ並にとりがたし

 
紀伊国名所図会きいのくにめいしょずえ』三編、六之巻(天保九年発行)高野山の部に、この蛇柳の図が出ている。「渓のほとりにありいにしへは大蛇ありてようをなす時に弘法(大師)持咒じじゅうしたまいければ大蛇忽ち他所にうつりて跡に柳生ぜり因て此名ありといふ、一説に遠く是を望めば蜿蜒※(「梟」の「木」に代えて「衣」、第3水準1-91-74)えんえんじょうだとして百蛇の※(「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1-92-52)いいするがごとし因て名づくといふ猶尋ぬべし
 

夫木抄 正嘉二年毎日一首中
   咲花に錦おりかく高野山柳の糸をたてぬきにして
                  民部卿知家
   吹たびに水を手向る柳かな     米冠

 
と書いてある。
 また同書蛇柳の図の上方に、「我目わがめにも柳と見へて涼しさよ」麦林 の俳句と、「ともすればたけなる髪をふりみだし人の気をのむ風の蛇柳」栗陰亭 との狂歌が記してある。
 昭和三年(1928)三月発行の『植物研究雑誌』第五巻第三号に「じゃやなぎノ名ノ起リ」と題し、久内清孝ひさうちきよたか君がこのヤナギについて「此世からさへ嫌はれて深く心を奥の院渡らぬ先に渡られぬみめうの橋の危うさも後世のみせしめ蛇柳や」(巣林子そうりんし女人堂高野山心中万年草にょにんどうこうやさんしんじゅうまんねんぐさ』)の書き出しで、いろいろと書いていられる。それへこのヤナギ研究に縁ある白井光太郎博士自筆の蛇柳原稿図も添えてある。
 以前高野山で植物採集会が催された時、その指導者として私も行ったのだが、その折私は同山幹部のある僧に向かってこの蛇柳の由来をたずねてみたら、その答えに「昔高野山の寺の内に一人の僧があって陰謀を回らし、寺主の僧の位置を奪い自らその位に据らんと企てたことが発覚して捕えられ、後来の見せしめのためにその僧を生埋にしたところがあの場所で、そこへあの通り柳を植え、そして右のような事情ゆえその罪悪を示すためその柳の名も蛇柳と名づけたようだ」と語られた。
 右の有名なヤナギも今は既に枯死して、ただその名を後世に遺すのみとなった。上のような由来をもったヤナギであったのだから、その後継者として一株の柳樹を植えその跡を標したらどうだろう。