紀州高野山の蛇柳
紀州の国は名だたる高野山の寺の境内地に、昔から
理学博士白井光太郎君はかつて我国のヤナギ類について研究したことがあった。その時分高野にこの柳を採集して検討し、その名を該柳にちなんでそのままジャヤナギと定められたので、爾後この名でこの
右の蛇柳について同博士(当時は理学士)は明治二十九年(1896)六月発行『植物学雑誌』第十巻第百十二号に左の通り書かれている。すなわち、
高野山ノ蛇柳
蛇柳ハ高野山上大橋ヨリ奥ノ院ニ至ル右側ノ路傍ヲ去ル十間許ノ処ニアリ高野山独案内ニ「蛇柳の事」「此柳
である。
『
柳[牧野いう、は蛇と同字でヘビである]
息処石の南大河南岸に洲あり古柳蟠低して異風奇態あり夫木集に知家朝臣の歌に咲花に錦おりかく高野山柳の糸をたてぬきにしてといふ此歌にては柳のことあらわれず扶桑名勝詩集に宕快法印の作とて高野山十二景の中に雪中柳の題のみあり本州旧跡志に柳大塔の東廿八町にあり昔し此所に大ありて妖をなせり時に弘法持呪しければ他所にうつりて其跡に柳生ぜり因て柳といふとあり又此柳偃低大に似たれば柳といひ又大師の加持力にてを変じて柳とならしむといふ説あれどもいぶかし近世雲石堂十八景の中に春日柳の詩あり略す又俗諺に昔し此所に大ありて人を害す大師これを悪み給ひて竹の箒もて大滝へ駈逐し玉ふゆへ大の怨念竹の箒に残れりそがゆへに当山の竹の箒を禁ず又駈逐の時後世若此山にて竹の箒を用ば其時に来り棲めと誓約し玉ふゆへとも云ふ並にとりがたし
『
夫木抄 正嘉二年毎日一首中
咲花に錦おりかく高野山柳の糸をたてぬきにして
民部卿知家
吹たびに水を手向る柳かな 米冠
と書いてある。
また同書蛇柳の図の上方に、「
昭和三年(1928)三月発行の『植物研究雑誌』第五巻第三号に「じゃやなぎノ名ノ起リ」と題し、
以前高野山で植物採集会が催された時、その指導者として私も行ったのだが、その折私は同山幹部のある僧に向かってこの蛇柳の由来をたずねてみたら、その答えに「昔高野山の寺の内に一人の僧があって陰謀を回らし、寺主の僧の位置を奪い自らその位に据らんと企てたことが発覚して捕えられ、後来の見せしめのためにその僧を生埋にしたところがあの場所で、そこへあの通り柳を植え、そして右のような事情ゆえその罪悪を示すためその柳の名も蛇柳と名づけたようだ」と語られた。
右の有名なヤナギも今は既に枯死して、ただその名を後世に遺すのみとなった。上のような由来をもったヤナギであったのだから、その後継者として一株の柳樹を植えその跡を標したらどうだろう。