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醜い家鴨の子
DEN GRIMME AELING
ハンス・クリスチャン・アンデルゼン
Hans Christian Andersen
菊池寛訳
……承前……
あらしはますますつのる一方で、子家鴨にはもう一足も行けそうもなくなりました。そこで彼は小屋の前に坐りましたが、見ると、戸の蝶番が一つなくなっていて、そのために戸がきっちり閉っていません。下の方でちょうど子家鴨がやっと身を滑り込ませられるくらい透いでいるので、子家鴨は静かにそこからしのび入り、その晩はそこで暴風雨を避ける事にしました。
この小屋には、一人の女と、一匹の牡猫と、一羽の牝鶏とが住んでいるのでした。猫はこの女御主人から、
「忰や。」
と、呼ばれ、大の御ひいき者でした。それは背中をぐいと高くしたり、喉をごろごろ鳴らしたり逆に撫でられると毛から火の子を出す事まで出来ました。牝鶏はというと、足がばかに短いので
「ちんちくりん。」
と、いう綽名を貰っていましたが、いい卵を生むので、これも女御主人から娘の様に可愛がられているのでした。
さて朝になって、ゆうべ入って来た妙な訪問者はすぐ猫達に見つけられてしまいました。猫はごろごろ喉を鳴らし、牝鶏はクックッ鳴きたてはじめました。
「何だねえ、その騒ぎは。」
と、お婆さんは部屋中見廻して言いましたが、目がぼんやりしているものですから、子家鴨に気がついた時、それを、どこかの家から迷って来た、よくふとった家鴨だと思ってしまいました。
「いいものが来たぞ。」
と、お婆さんは云いました。
「牡家鴨でさえなけりゃいいんだがねえ、そうすりゃ家鴨の卵が手に入るというもんだ。まあ様子を見ててやろう。」
そこで子家鴨は試しに三週間ばかりそこに住む事を許されましたが、卵なんか一つだって、生れる訳はありませんでした。
この家では猫が主人の様にふるまい、牝鶏が主人の様に威張っています。そして何かというと
「我々この世界。」
と、言うのでした。それは自分達が世界の半分ずつだと思っているからなのです。ある日牝鶏は子家鴨に向って、
「お前さん、卵が生めるかね。」
と、尋ねました。
「いいえ。」
「それじゃ何にも口出しなんかする資格はないねえ。」
牝鶏はそう云うのでした。今度は猫の方が、
「お前さん、背中を高くしたり、喉をごろつかせたり、火の子を出したり出来るかい。」
と、訊きます。
「いいえ。」
「それじゃ我々偉い方々が何かものを言う時でも意見を出しちゃいけないぜ。」
こんな風に言われて子家鴨はひとりで滅入りながら部屋の隅っこに小さくなっていました。そのうち、温い日の光や、そよ風が戸の隙間から毎日入る様になり、そうなると、子家鴨はもう水の上を泳ぎたくて泳ぎたくて堪らない気持が湧き出して来て、とうとう牝鶏にうちあけてしまいました。すると、
「ばかな事をお言いでないよ。」
と、牝鶏は一口にけなしつけるのでした。
「お前さん、ほかにする事がないもんだから、ばかげた空想ばっかしする様になるのさ。もし、喉を鳴したり、卵を生んだり出来れば、そんな考えはすぐ通り過ぎちまうんだがね。」
「でも水の上を泳ぎ廻るの、実際愉快なんですよ。」
と、子家鴨は言いかえしました。
「まあ水の中にくぐってごらんなさい、頭の上に水が当る気持のよさったら!」
「気持がいいだって! まあお前さん気でも違ったのかい、誰よりも賢いここの猫さんにでも、女御主人にでも訊いてごらんよ、水の中を泳いだり、頭の上を水が通るのがいい気持だなんておっしゃるかどうか。」
牝鶏は躍気になってそう言うのでした。子家鴨は、
「あなたにゃ僕の気持が分らないんだ。」
と、答えました。
「分らないだって? まあ、そんなばかげた事は考えない方がいいよ。お前さんここに居れば、温かい部屋はあるし、私達からはいろんな事がならえるというもの。私はお前さんのためを思ってそう言って上げるんだがね。とにかく、まあ出来るだけ速く卵を生む事や、喉を鳴す事を覚える様におし。」
「いや、僕はもうどうしてもまた外の世界に出なくちゃいられない。」
「そんなら勝手にするがいいよ。」
そこで子家鴨は小屋を出て行きました。
……つづく……
底本:「小學生全集第五卷 アンデルゼン童話集」興文社、文藝春秋社
1928(昭和3)年8月1日発行
入力:大久保ゆう
校正:秋鹿
2006年1月18日作成
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