都留文科大学・後藤道夫教授による﹁社会保障基本法﹂に関する講演要旨の続きです。︵※﹁日本だけが﹁子どもの貧困﹂を政府みずから拡大 - ﹁上層社会統合﹂に利用される社会保障﹂
﹁福祉国家は戦争をするために生まれた?﹂
のエントリーに続くものです。いつもの私の勝手な要約ですのでご容赦ください。byノックオン︶
膨大な国家財政を大規模な公共事業に投入して、業界と大企業を育成・援助し、同時に、企業間の競争を仕切って、指導しながら横並びで安全に成長させていく、そして保守政治家と一部のキャリア官僚がその関係を養分にして強い力を持つ。これが、﹁政・官・財癒着﹂、﹁業界横並び体質﹂、官僚の﹁仕切り﹂などと呼ばれている日本の社会システムです。こうした体質と構造を持つ日本を、私は﹁開発主義国家﹂と呼んでいます。
﹁開発主義国家﹂である日本は、膨大な公共事業への財政投入とともに、それを担う大企業を誘導するための税制上の優遇措置や、規制と行政指導によって一種の管理経済をめざし、大企業中心の資本蓄積を助けてきました。滋賀大学・宮本憲一名誉教授の調査によると、情報提供も重要な誘導手段で、大企業が本社を東京に置く最大の理由は、霞が関官庁情報の収集にあることが分かっています。︵滋賀大学・宮本憲一名誉教授著﹃現代資本主義と国家﹄岩波書店︶
政府・行政が行う具体的な方策として、成長力の高い産業の選定、輸入制限・関税・低利融資による企業保護、業界の育成と情報提供・指導、過当競争を排除して企業どうしが﹁仕切られた競争﹂を行うための各種の介入、などがあります。政府は莫大な国家資金投入を背景として、﹁クチ﹂も出したわけですが、企業の側もそうした﹁カネとクチ﹂に乗りながら、急成長をとげたのです。
1972年のアメリカ商務省レポートが、日本の国家と企業の関係を﹁日本株式会社﹂と特徴づけて以来、当時の通産省がそれぞれの業界に行ってきた援助・規制・指導・仕切りは、その代表的な事例として内外の注目を集めました。米国日本政策研究所所長で、カリフォルニア大学名誉教授のチャーマーズ・ジョンソン氏が著作﹃通産省と日本の奇跡﹄︵1982年︶の中で、日本を﹁開発志向型国家﹂と呼び、﹁国家主導型市場システム﹂における経済官僚機構の役割を強調しました。いずれも、日本が欧米型の自由市場モデルとは違う独自の国家と企業の関係を持っていて、日本経済の強い成長力の源泉はそこにある、という主張です。
﹁開発主義国家﹂のこうした役割をになうため、中央省庁も﹁開発主義的﹂な行政機構や体質を持っています。近年、官僚バッシングや公務員バッシング、行政への風当たりが非常に強いわけですが、それは、主に﹁開発主義﹂を支えてきた行政の機能とそれに適した行政機構・行政体質に向けられたバッシングだと思います。
たとえば、文部科学省の権威主義的・管理主義的体質は、古くさい国家主義というより、資本にとっての﹁良質な労働力﹂を画一的に大量育成するための、まるで大量生産工場のような指揮・命令の体質という側面が強いと思います。
また、多額の財政投融資は、予算の単年度主義と国会審議の制約を超え、﹁開発主義国家﹂が政策目的にあわせて柔軟に国家資金を運用できる有効な手段です。地方の有力者を含んだ保守政治家、行政、大企業・業界の三者が、なかば独裁的に開発計画や国家資金の運用を行う上で、財政投融資と各種利益団体は大きな役割を果たしました。こうした不透明さも行政への批判、官僚バッシング、公務員バッシングにつながっています。
﹁開発主義﹂は、官僚機構に強い指導権限を与え、それと大企業の利害、業界利害、地域利害が自民党を通じて政治的に結びつく、独特の非民主主義的な社会構造をつくってきました。つまり、全国規模の問題でも地域でも、企業や財界、官僚、保守政治家が、国民の目の届かないところで、産業政策と財政支出を事実上独裁的に動かしていく大規模な談合型の政治・行政運営が生み出されてきたのです。
ところが、経済グローバリズムの時代を迎えて、﹁構造改革﹂﹁新自由主義﹂の流れは、これまでの﹁開発主義国家﹂のあり方に対して、財界自身が批判をするようになってきます。
企業体質の問題としては、投資に対する収益率を高めること、つまり、株主からの高い評価を第一にすることが中心的な経営目標となっておらず、むしろ雇用が大事にされてきたことを、財界は批判します。行政依存体質、業界横並び体質、そして日本型雇用を含む内向きの企業体質では、経済グローバリズムの中にあっては、競争力を維持できないと財界は主張するようになったのです。
﹁開発主義国家﹂であった日本では、先進国の中でも突出した莫大な公共事業支出と、先進国最低の社会保障支出という財政構造が続いてきました。この財政構造は、グローバル化で新たに要請される多国籍企業支援策における財政上のフリーハンドを確保するためには、絶好の﹁遺産﹂であるはずです。公共事業費の総枠は減らすにしても、その多くを新たな企業支援に使えば、他国にない、多国籍企業支援の強力な財政構造をつくることができるからです。アメリカは軍事費に財政の多くをとられていますし、ヨーロッパは社会保障に多くをさいているのです。
もともと、新自由主義による﹁小さな政府﹂の主張は、多国籍企業の自由な活動を阻害する旧来の福祉国家あるいはその代替物の破壊を目的とした主張であり、国家一般の縮小あるいは経済への国家介入一般の縮小の主張ではありません。日本の﹁構造改革﹂は、﹁開発主義国家﹂から﹁多国籍企業支援国家﹂への転換を課題としているのです。
これまでの日本において、﹁福祉国家﹂が存在したことはありません。﹁福祉国家﹂とは似て非なる﹁開発主義国家﹂であったわけです。﹁開発主義国家﹂であった日本では、政府の財政力、行政力は、企業、業界、各種利益団体のところに注がれます。その結果として、国民の生活がなんとか良くなる、マーケットの状態が良くなる、雇用が増える、賃金水準が上がる--というふうにして国民の生活が、政府から社会保障として直接支援されるのではなくて、﹁開発主義﹂政策を通じて間接的に支援されるという構造を取ったのが日本の﹁開発主義国家﹂です。
ヨーロッパ型の﹁福祉国家﹂というのは、国家行政や地方自治体が国民生活を手厚い社会保障で直接に支援します。住宅を無料で保障する。子育ての負担も個人まかせでなく行政が負担する。大学まで学費は無料にする。医療も無料にする。--など様々な形で国家行政と自治体が国民の暮らしを直接支援するのが﹁福祉国家﹂です。
日本におけるこの間接的支援というやり方は、結局最後は﹁市場収入で暮らしなさい﹂という話です。だから、﹁開発主義国家﹂において、ミクロには﹁自己責任﹂の社会であるということです。日本ではこうした﹁自己責任﹂の状態が何十年も続いてきたわけです。これが、いまの新自由主義改革に対して、日本の国民にほとんど抵抗力がない1つの背景になっていると思います。
日本には政府・行政による貧困統計が存在しません。日本政府は、1965年まで公式に貧困統計を発表していました。それが、1966年以降、公式の貧困統計がなくなります。現在もありません。私の知る限りこういう国は他にありません。なぜ、貧困統計が存在しないのか。日本政府は、日本型雇用を誇り、﹁労働能力と労働意欲があれば市場収入で最低生活は可能という大前提﹂に立ち、ある意味、日本に貧困は存在しないんだとしているわけです。では日本の社会保障は何をするのか。勤労不能者、高齢者、傷病障害者、母子世帯などに、ある程度の援助をすればいいのだというのが日本の社会保障です。
この﹁労働能力と労働意欲があれば市場収入で最低生活は可能という大前提﹂、これを認めるか認めないかで、﹁福祉国家﹂が必要か必要でないかという話に直結します。日本はこの大前提を認めて今までずっとやってきたわけですが、ヨーロッパ諸国は、そうじゃなかったわけです。
きちんとした社会保障の存在しない日本の労働者はどうなるか。﹁福祉国家﹂であるヨーロッパと違って、日本の労働者の多くに見えている自分の生活や雇用の場面での要求を実現する﹁回路﹂は、企業の中で自己努力を積み重ね、自分が勤める企業が競争に負けずに成長するよう貢献するとともに、その貢献度をめぐる労働者間競争で負けないように頑張って、自分の雇用と生活を守る、というものです。日本では労働組合は重要な位置を持たないのです。逆に﹁福祉国家﹂であるヨーロッパでは、対政府との力関係で社会保障を維持・拡充させる﹁回路﹂、労働者の要求が実現される﹁回路﹂として、労働組合が重要な位置を占めているのです。
日本型雇用は、長期雇用と年功型処遇、それに加えて、労働者が競争主義の論理を受け入れていることに大きな特徴があり、これを私は﹁企業主義統合﹂と呼んでいます。ここでいう競争主義とは、自分の企業が競争に負けず自分も労働者間の競争に負けないことで初めて、雇用と生活の維持・安定が可能となり、そのどちらかで負ければ没落はしょうがない、という論理です。競争の単位は、企業および労働者個人で、競争は二重に行われます。日本型雇用の労働市場では企業をかわって働くという選択肢が制限されていたため、企業競争に貢献すべきだという圧力はたいへん高いものとなり、企業内の労働者間競争も非常に激しいものとなります。
労働者自身が、企業主義の競争原理を非常に深く内面化していて、企業が生き残ることと自分が生き残ることが一体で、経営者の仕事と自分の仕事は近いという感覚、これが﹁企業主義統合﹂の重要な部分をなしています。
労働組合の努力も、企業の成長を前提とした上で、労働者への配分を確保する﹁春闘﹂を中心としたものとなっていきます。そうすると、企業の業績回復が何より優先されることになり、労働組合も﹁企業主義統合﹂に巻き込まれ、結局、人間らしい生活水準の確保は、労働者一人ひとりの努力、﹁自己責任﹂にまかされています。住宅や高等教育の費用を考えれば、そのことはすぐ分かります。日本は﹁自己責任国家﹂なのです。
﹁福祉国家﹂ではない日本の労働者にとって、日本型雇用の長期雇用と年功型賃金が頼りであるのに、﹁構造改革﹂﹁新自由主義﹂はそこを破壊対象とします。
日本の労働者は、﹁労働能力と労働意欲があれば市場収入で最低生活は可能という大前提﹂に立たされ、﹁企業主義統合﹂﹁日本型雇用﹂でしか人間らしい生活水準を確保できないのです。ですから、﹁派遣切り﹂など﹁非正規切り﹂、そして﹁正社員切り﹂などの横行で、労働者は、路頭に迷うほかないのが現状であり、日本全国が﹁派遣村﹂となってしまいかねない状況にあるわけです。
にもかかわらず、さらに社会保障を削減せよという要求が財界・大企業から出されます。それは、国家財政の大幅な赤字が続くなかで--その大幅な赤字も企業への支援、﹁開発主義﹂政策がもたらした結果であるにもかかわらず、この事態さえ、財界・大企業は逆手に取って--財界・大企業の責任は棚に上げもっぱら官僚に責任をなすりつけて--これがまた官僚バッシング、公務員バッシングにつながります--財政赤字だから社会保障への財政支出は抑制して、多国籍企業支援分を確保せよ、というわけです。
新自由主義が進行してくると、格差が拡大し、階層の分裂が進み、国民全員を単一の公的な社会保障制度の対象として人間らしい生活を保障する、というやり方に対して、上層階層からの不満が強くなります。自分たちが高い税金をとられて、それが下層のために使われるのは不愉快だからやめてくれというわけです。所得税の累進税を減らして﹁フラットな税制﹂に近づけろとか、富裕層に対してより手厚く減税すれば経済の活性化につながり、下層への減税はそうした効果が薄い、などという主張がマスコミ、ジャーナリズムで主張されるようになってきます。上層階層の新自由主義的な政治感覚・生活感覚が、その国の政治やマスコミ、ジャーナリズムを覆っていき、新自由主義的な階層政治が強い力を持つようになってくるのです。
ですから、従来の﹁開発主義国家﹂を解体する際にも、国民生活と敵対する過去の負の部分を問題にして、それを官僚の責任として描き出し、官僚バッシング、公務員バッシングを展開する。新自由主義にとって邪魔になった日本型雇用の典型である公務員をバッシングする。こうしたことが、財界・大企業発で、マスコミ、ジャーナリズムを覆っているわけです。
そして、国民、労働者の側は、これまで﹁開発主義国家﹂と﹁企業主義統合﹂の中で暮らしてきましたから、国家行政と地方自治体などから生活を支えてもらっている実感がほとんどないわけです。行政サービスを受けているという実感のあまりない国民は、﹁開発主義国家﹂における官僚の腐敗などをマスメディアでみせつけられると、﹁官僚が日本をダメにしている﹂などという公務員バッシング言説にすぐだまされてしまうわけです。しかし問題の本質は、﹁政・官・財癒着﹂の社会システム、つまり、自民党政治とキャリア官僚と財界・大企業の合作政治・行政にあるわけで、その構造にメスを入れ、改革していかなければ日本社会を改善していくことはできないのです。