懐かしい助っ人が宜野座キャンプに顔を見せた。83、84年に投手として在籍したリチャード・オルセンさん(65)が訪問。 ブルペンでは、ともにプレーした岡田監督と握手し再会を喜んでいた。同い年の指揮官は「会うたけど分からへんな、あんな太ってたら」と笑った。 背番号「43」を背負った181センチの右腕は2シーズンで42試合に登板。6勝11敗1セーブ、防御率4・19の成績を残している。 【関連記事】阪神ニュース一覧
2021年8月22日 新型コロナウイルス感染状況のご報告とお詫び GM 清水直行 まず初めに、沖縄県内で開催を予定しておりました九州アジア交流戦〈大分B-リングス戦〉を中止とさせていただきましたこと、ご協力くださいました各市町村の皆様、大分B-リングスの皆様、九州アジアプロ野球機構の皆様、その他ご関係者の皆様へ多大なるご迷惑をお掛け致しましたこと、心よりお詫び申し上げます。また、スポンサーの皆様、一口オーナーの皆様、応援してくださるファンの皆様、地域の皆様には多大なるご心配とご迷惑をお掛けいたしましたこと深くお詫び申し上げます。 GMとしてチームの管理を任されている中で、5月の沖縄県緊急事態宣言発令時より繁華街への外出禁止、条例違反を行っている飲食店の利用の禁止、会食は4人まで、不要不急の外出禁止など様々な規律を設け、県が発令している協力要請に1人の国民として協力するよう呼びかけると共に、
平成中期に甲子園で話題になった変化球が今、絶滅の危機にある。奥浜正(58)が宜野座(沖縄)の監督を務めていた2001年(平13)。21世紀枠でセンバツ初出場した際に比嘉裕投手が投げ「宜野座カーブ」と呼ばれた魔球だ。 宜野座カーブのはじき方を説明する奥浜氏(撮影・金子真仁)親指と人さし指の間から抜くのが、一般的なカーブだ。ただ奥浜は「腕の振りの速さにひねりがついていかない。カーブはこの一致が難しい」と感じていた。かつて経験した円盤投げを思い出した。人さし指で切り、強烈な回転をつける-。この原理を応用した。 内から外へ。シュートの捻転で縫い目を切り、カーブを投げる。この感覚を身につけるためだけに、1日の練習全てを費やしたこともある。比嘉も、マスターまで2カ月かかった。強烈な縦回転のカーブは打者には脅威だった。センバツで対戦した桐光学園(神奈川)の天野喜英(35=現・同校教諭)は「すごく重いカー
【気になるあの人を追跡調査!野球探偵の備忘録(13)】今年もセンバツ高校野球で球児たちの熱戦が繰り広げられているが、2001年のセンバツで大旋風を巻き起こしたのが、21世紀枠で出場し、初出場ながらベスト4入りした沖縄・宜野座高校だ。エース・比嘉裕のタテに鋭く落ちるカーブは、代々宜野座の投手陣に受け継がれ、魔球「宜野座カーブ」として広く世間を沸かせた。新変化球ともいわれた宜野座カーブの生みの親、元宜野座高校監督・奥浜正(55)を訪ね、魔球誕生の秘密に迫った。 「宜野座カーブ」。その投げ方は、通常のカーブとはボールをリリースする際の手の甲が正反対を向く。リリース時の手の甲の向きが同じ「シュート」は最後、中指と薬指の間からボールを抜くように投げるが、宜野座カーブは縫い目にかけた人さし指で下方向へ強く引っかくようにトップスピンをかける。リリース時、人さし指で強く切るというのは、横から投げる陸上の「
スポーツ アルプス、消えた「ハイサイおじさん」 夏の甲子園2010年8月18日 興南の8強進出が決まり、喜びを爆発させる一塁側アルプス席=17日、阪神甲子園球場 【甲子園取材班】甲子園の応援歌として定番だった「ハイサイおじさん」がことしはアルプス席で流れず、観客から「聞きたい」という声が相次いでいる。チャンスにアルプス席を一層盛り上げる曲だったが、興南の春夏連覇を願って関係者が制作した新応援歌の登場で、姿を消しつつある。 興南の試合では「ヒヤミカチ節」を基に作った新応援歌が演奏され、野球部員らも「ヒヤ、ヒヤ、ヒヤヒヤヒヤ」と左右にメガホンを振って踊り、板についてきた様子。 2回戦で敗退した元沖尚の金城孝夫監督が率いる長崎日大の試合では、県出身の島袋翔輝選手らが活躍し、何度も演奏された。長崎日大の応援団の中には沖縄勢の応援さながらにカチャーシーを踊る観客もいた。 35年以上にわたり県
甲子園球場(兵庫県西宮市)で開かれている第92回全国高校野球選手権大会で、準々決勝進出を果たした興南高校(沖縄)のアルプススタンド応援席から、沖縄代表の定番応援歌「ハイサイおじさん」が、ピタリと消えた。理由は、酔っぱらいおじさんを扱った歌詞が高校野球にふさわしくないという“教育的指導”。興南高校は18日の準々決勝第2試合に登場するが、おなじみのメロディー復活を求める声は根強い。 1通の投書きっかけ…全国のファン復活望む声 「ハイサイおじさん」は、約30年前に沖縄で生まれた歌謡曲。25年ほど前、沖縄出身で兵庫県尼崎市内の中学校で音楽教諭をしていた羽地靖隆さん(62)が、甲子園に出場した沖縄勢を応援するため、生徒たちと演奏したのが始まり。独特のリズムが人気となり、沖縄県勢共通の応援曲となった。 ところが今年7月、地元紙に、「遊郭を遊び歩く酒飲みおじさんをからかう原曲の歌詞が、高校野球にそぐわ
今日沖縄プロレスが、 石垣で試合をしたので、 見に行きました 楽しかったです ホテルに戻ると、 デルフィンのマスクかぶった、 奴があらわれた はっちゃく
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