あの有名な梅田望夫さんが、なんか日本語が亡びるとき―英語の世紀の中でとかいう本を祭り上げて全員読むべきと啓蒙したり、読みもしないでコメントするやつはバカだと嘲ってみたりと、巷はなにかと騒々しいわけであるが、当然私は読まない。読まないで適当なことを言う。 言語なんて、そもそもただのツールである。手段であって目的ではない。目的はコミュニケーションである。そういう意味で、言語も貨幣も一緒。コミュニケーションのインタフェース部分だ。そんなものにアイデンティティを感じたり、絶対化したがる人の神経がよくわからん。 確かに、言語に基づいた文化があることは知っている。文学とでも括ればよいのだろうか。しかしそれはそれ、これはこれ、である。本来の用途とはまた違う用途で取り上げられ、それが文化的な価値をおびるのはよくあることだ。CDの方が便利でもレコードの趣は廃れないし、写真のほうが正確であっても絵の情緒は失わ
突然だけど私はディベートに対しかなり強い生理的嫌悪がある。キモい。しょうじき、授業とかでやらされるのはいやだった。以下、ルサンチマンを限りなく言語化(i.e. こじつけ)ものごとを「二項対立」で捉えるのは、かなり貧しい思考ではないか。それが例えゲームだとしても。議論において、「勝敗」を前提にするところが生理的に受け付けない 議論で、勝ち負けなんてどうでもいい、勉強になるかどうかが重要そもそもオーディエンスに勝敗など決められてたまるか オーディエンスが中立だとだれが担保するの?オーディエンス個々が「きちんと理性的・客観的にものごとを判断できる合理的主体」という危うい仮定を持ち出さない限り、勝敗は、ディベーターたちの言語資本の量比べに成り下がるだけでは?レトリック重視は、結局、オーディエンスをバカにしているんじゃないか学術的な講演会にもかかわらず、レトリックとかジョークとかばっかで、内容がひど
長崎の司法修習生が巻き起こした一つの“事件”。 「インターネット上の自身のブログに、検察の実務修習で体験した容疑者の取り調べや司法解剖の内容などについて書き込みを続けていたことが19日、分かった。同地裁は「修習生としてふさわしくない行為があった」として、裁判所法の守秘義務違反に当たる可能性もあるとみて事実関係の確認を急いでいる。」(日本経済新聞2008年6月19日付朝刊・第22面) この後に続く記事だけ見ると、“ミーハーな愚か者が迂闊にも・・・”というコメントがぴったり来るような一連の報道。 最初、某著名ブログ経由でこの記事を読んだ時は、自分もうっかり騙されるところだった・・・。 だが、嫌疑をかけられた修習生の名誉のために言うならば、このレベルの書き込みに対して「守秘義務違反」で制裁を加えることが許容されてしまうのだとすれば、この国の司法はちょっと危うい(少々大げさかもしれないが)。 本人
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