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記事へのコメント66件
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![netcraft3 netcraft3](https://cdn.profile-image.st-hatena.com/users/netcraft3/profile.png)
netcraft3
何を今さら。元寇での元の敗因が暴風雨であった説は大分前から否定されている。文永の役は元の威力偵察・示威行為の面が強い。弘安の役では鷹島沖海戦などで元軍に打撃を与えて太宰府占領を断念させている。
![moritata moritata](https://cdn.profile-image.st-hatena.com/users/moritata/profile.png)
moritata
朝日新聞の「近年」は数十年前の話なんだろうな。元寇の様な戦の話は歴史家だけでは評価出来ないのを証明した話。日本側が善戦して実力で阻止したのはとっくに知られた話。勉強不足も甚だしい 。http://amzn.to/2iQQ4tE
![sharia sharia](https://cdn.profile-image.st-hatena.com/users/sharia/profile.png)
sharia
無邪気に神風信じている人なんていないと思うんだけど、むしろその状態で諸国をまとめられた北条時宗の政治的手腕ってすごいと思うんだよね・・・。まあ逃げ道がなかったからやけくそになってだけかもしれないけど。
![kash06 kash06](https://cdn.profile-image.st-hatena.com/users/kash06/profile.png)
kash06
後半に書いてある通り、寺社としては調伏祈祷による神風を、武士は武勲による恩賞を主張した(竹崎季長『蒙古襲来絵詞』とか)のが、鎌倉末期の不満に繋がるという話。新井孝重さんの本が参考にも上がってる。
![Cru Cru](https://cdn.profile-image.st-hatena.com/users/Cru/profile.png)
Cru
有料記事になってたがブコメで読まなくて良いことを知る。しかしこれがなんで『憲法草案に「いいじゃないか」 昭和天皇の発言、メモに』の関連記事なんだ?歴史タグなんだろうが政治憲法タグがついてなさ気なのが違
![aht_k aht_k](https://cdn.profile-image.st-hatena.com/users/aht_k/profile.png)
aht_k
いや、実際学校卒業してから日本史に興味なくて知識をアップデートしてない人なんて沢山居るだろうし、こうやって今の定説を新聞のようなメディアで伝えるの意義あると思うけどな。/ブコメによるマウンティングか?
![mazmot mazmot](https://cdn.profile-image.st-hatena.com/users/mazmot/profile.png)
mazmot
武士たちは当初から自分たちが戦って退けたと主張した。それに対して数十年後に神社が「神風が吹いた」(だから自分たち神社がエライ)という新説を唱えた。さて、真実は? 元軍側の問題との説を私はとりたいな。
![greenT greenT](https://cdn.profile-image.st-hatena.com/users/greenT/profile.png)
greenT
当時の祈祷師っていうのは本当に神頼みをしていたんじゃなくて意思決定者の調整をするいわばコンサルのような仕事をしていたらしく、そう考えると現場ではなく祈祷師の功績にした幕府の行動原理も今と変わらない
![emiyosiki emiyosiki](https://cdn.profile-image.st-hatena.com/users/emiyosiki/profile.png)
emiyosiki
関連記事かきました→「きっかけは「神風」でも1日でなく7日ほどで撤退した元寇・猛攻襲来の実態」http://emiyosiki.hatenablog.com/entry/2017/01/09/095519
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勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方:朝日新聞デジタル
モンゴル帝国︵元︶の襲来を、鎌倉武士が2度にわたって食い止めた﹁元寇︵げんこう︶﹂。文永の役︵1...
モンゴル帝国︵元︶の襲来を、鎌倉武士が2度にわたって食い止めた﹁元寇︵げんこう︶﹂。文永の役︵1274年︶、弘安の役︵1281年︶とも長年、暴風雨︵神風︶が勝因とされてきたが、近年、新たな見方が浮上している。 今まで﹁元寇﹂はおおむね次のような経緯だったとされてきた。 1274︵文永11︶年、900隻、4万人の元軍が対馬と壱岐を攻略。鷹︵たか︶島︵長崎県︶上陸後、博多湾まで進出したが、暴風雨に遭い退却︵文永の役︶。 続く1281︵弘安4︶年、朝鮮発の東路軍と中国発の江南軍の4400隻、14万人が攻め寄せたが、日本側の防戦で一時撤退。さらに鷹島に停泊中の船団を暴風雨が襲ったため、退却︵弘安の役︶。その後、皇帝フビライは3度目の日本遠征を計画したが、亡くなったため、沙汰やみとなった。 危機に大風が吹き、異国の敵が追い払われたことから、2回にわたる暴風雨は﹁神風﹂といわれ、第2次世界大戦中には、
2017/01/08 リンク