プロデューサーの鈴木敏夫は、『風の谷のナウシカ』(1984)のクリエイティブチームとはずっと繋がっていなくてはならないと理解していた。そして1985年、宮﨑と、もう1人の偉大なアニメの天才・高畑勲と共にスタジオジブリを設立した。この社名は、第一次世界大戦のイタリアの戦闘機パイロットたちが、サハラ砂漠に吹き付ける熱風から名付けたのではないかという伝説が飛び交っている。 米国人のスティーブン・アルパートは、スタジオジブリで働いた最初の「ガイジン」で、1996〜2011年まで国際販売の責任者を務めた。「ディズニー」の日本支社で働いていたアルパートだが、複雑なジブリのすべてを理解することはできなかった。彼は自著『吾輩はガイジンである。──ジブリを世界に売った男』で、宮﨑の仕事の仕方を解説している。 「彼は『ストーリーボード』を描く。それらはジブリでは『絵コンテ』と呼ばれており、それがストーリーボー
君たちはどう生きるか。 原作・脚本・監督:宮﨑 駿 製作:スタジオジブリ ...
※本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ています 宮崎駿さんが長年愛用している電動消しゴムが故障してしまい、スタジオジブリの公式Twitterがなるべくそれに近いものを探してたところ、サクラクレパスの公式Twitterがすでに生産終了となっている同商品を倉庫から発掘。その対応とやり取りにほっこりする声が上がり話題になっています。サクラクレパスの“中の人”を取材しました。 きっかけは、スタジオジブリ公式アカウントのツイート。宮崎監督がずっと使っていた「理想の電動消しゴム」が旅立ってしまい、実際の写真とともに「電池式ではない」「台座で充電できる」といった特徴を挙げ、現在は廃番であることから「どなたか、理想に近い電動消しゴムをご存知でしたら教えてください」と投稿していました。 宮崎監督の“相棒”としての思い出写真もみられ、「たくさん働いてくれました。ありがとう」の言葉が寄せられました。
※この記事には、映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』、『風立ちぬ』に関するネタバレが含まれています。未見の方は注意ください。 アニメーションの手本を示してくれた人 「庵野は血を流しながら映画を作る」 NHK総合公式サイト内の、『「プロフェッショナル 仕事の流儀」庵野秀明スペシャル』(3月22日 午後7時30分 放送予定)ページに記された宮崎駿の言葉だ。 庵野秀明が宮崎駿を師のひとりと仰いでいるのは有名だが、実際に師事した作品は意外に少ない。それでもこうした言葉が重く響くのは、宮崎と庵野の間に、ただ教え、教わるだけの師弟を超えた濃密な関係を感じるからだ。師弟であり、かつては仮想敵でもあったという2人の関係を、これまでの記事や発言をもとに紐解いてみよう。 先に、実際に師事した作品は少ないと記したが、主だったものとしては、庵野が巨神兵の原画を務めた『風の谷のナウシカ』(1984年)、庵野が主人公
30年経っても、特異なキャラ 12月25日、金曜ロードショーで約2年ぶりに長編劇場用アニメーション映画『風の谷のナウシカ』(宮崎駿監督)が放送される。劇場公開から30年以上経つにもかかわらずいまだ根強い人気を誇る作品で、特に主人公のナウシカは、宮崎駿が創造した中でも圧倒的なインパクトのあるキャラクターだ。 しかし彼女は、ジブリ作品の他の女性キャラクターとも、また当時の他の映画の女性登場人物とも決定的に異なっているのだ。そんな彼女の特異な点について、考えてみたい。 『風の谷のナウシカ』が最初に劇場公開された1984年当時、「戦う女性ヒーロー」の登場するフィクションは、世界的に主流になりつつあった。 1970年代には、女性専用の刑務所や強制収容所を舞台とする「女囚もの」、自分に屈辱を与えた男性に復讐する「レイプ-復讐もの」や、殺人鬼の襲撃から生き延びたヒロインが最後に反撃するホラーのサブジャン
大久保マコト @makoto_ookubo 「クラリスみたいな女の子が現実にいるわけない」と言われた宮崎駿が「いやいるよ!何を言ってるんだ君は!」と怒りつつ、「あれはほんの数日間の出来事であって、その間『おじさま』の前で猫をかぶることなら誰でもできる」というようなことも言ったそうで、おっかないおやじだと思った 2019-07-30 00:45:08
アニメーション映画の巨匠 宮崎駿監督が、代表作「となりのトトロ」の構想を練った場所として知られる埼玉と東京にまたがる雑木林を訪れ、ファンや地元の人たちとともに林の手入れを行いました。 宮崎監督は日頃からこの雑木林周辺の保全活動に取り組んでいて、20日はファンや地元の人などおよそ300人が集まりました。 はじめに宮崎監督が作業について説明したあと、参加した人たちはさっそく鎌などを使って草を刈り取る作業を行いました。そして、宮崎監督も一緒に作業に取り組み汗を流していました。 宮崎監督は「この雑木林に来ることはもう生活の一部になっていて、来ると気持ちがほっとします」と話していました。 東京 日野市から参加した40代の男性は「宮崎監督のファンで毎年来ています。子どもが自然について勉強できる場所は少なくなっているのでいい機会になっています」と話していました。
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