やなせたかしに関するmak_inのブックマーク (2)
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余はここに 漫画集出版を 全ビール国民に対して 布告する ビール国王 ボクはあこがれるなあ 王者の風格に 高貴純潔慈愛のまなざし ゆっくりと微笑して 心は四月の太陽のようにあたたかい ああ王さま ボクも あなたの国へ行き あふれる涙は正義のため マンガかくのはお金のためじゃない みんなをニッコリ笑わせる あなたの政策に協力したいのです (やなせたかし ﹁アンパンマンの遺書﹂) 1973年。それは、やなせ先生のターニング・ポイントの年でした。 詩集を出したサンリオ社がどんどんと大きくなり、やなせ先生の詩の本も順調に売れていました。 そこで社長に詩の雑誌を作ることを持ちかけたやなせ先生。 季刊誌の薄いものでいい、編集費は無料で自分の独力でやるから、と頼み込んだところ、二つ返事で了承されて、﹁詩とメルヘン﹂が創刊とあいなりました。 これが良く売れたので、すぐに月刊誌へと移行。﹁﹃詩とメルヘン﹄の
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アンパンマンのテーマソングは﹁なんのために生まれて、なんのために生きるのか﹂というのですが、実はぼくはずいぶん長い間、自分がなんのために生まれたのかよくわからなくて、闇夜の迷路をさまよっていました。 ︵やなせたかし ﹁やなせたかしの世界﹂︶ 同僚の小松記者と思いが通じ合ったやなせ先生。 しかし小松記者は、元上司の社会党代議士の秘書になって欲しいと頼まれ、上京してしまいました。 そして先生自身も、南海大地震の際に地震に気づかず寝てたらスクープを逃した、という事件で、自分はジャーナリストの世界には向いてないと思い、東京に出て新宿三越の宣伝部に入社します。アパート大家の三歳の子供と相部屋ながら、奥様との同棲生活が始まりました。 思えばあの頃はまだ若かった。若さのほかにはなにもなかったけれど。 (やなせたかし ﹁アンパンマンの遺書﹂) そこで先生は、三越の包装紙のレタリングなどをしたり、三越劇場の
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