隴西︵ろうさい︶の李徴︵りちょう︶は博学才穎︵さいえい︶、天宝の末年、若くして名を虎榜︵こぼう︶に連ね、ついで江南尉︵こうなんい︶に補せられたが、性、狷介︵けんかい︶、自︵みずか︶ら恃︵たの︶むところ頗︵すこぶ︶る厚く、賤吏︵せんり︶に甘んずるを潔︵いさぎよ︶しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山︵こざん︶、略︵かくりゃく︶に帰臥︵きが︶し、人と交︵まじわり︶を絶って、ひたすら詩作に耽︵ふけ︶った。下吏となって長く膝︵ひざ︶を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺︵のこ︶そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐︵お︶うて苦しくなる。李徴は漸︵ようや︶く焦躁︵しょうそう︶に駆られて来た。この頃︵ころ︶からその容貌︵ようぼう︶も峭刻︵しょうこく︶となり、肉落ち骨秀︵ひい︶で、眼光のみ徒︵いたず︶らに炯々︵けいけい︶として、曾︵かつ︶て進士に登