今週のお題「ブログ初心者に贈る言葉」 すばらしい詩人の一人である田村隆一はこう書きました。 沖にむかってどこまでも歩いて行くのだ そして ひたすら少数の者たちのために手紙を書くがいい 「新年の手紙」部分 私が十年とそこらブログというものを書いてきて、ずっと思っているのはこのことです。少数の者たちのために手紙を書く。こういった形で文章を世界中にさらけ出すにあたって、これ以外のことを考える必要はありません。 ブログを書こうという人など、それ自体が少数の者です。だから私は、いつものように少数の者のために書く。あなたのために書く。ブログを書こうなどという、少数の者のために。 初期衝動さえあればいい。その衝動がただひたすらにものを書くこと、だれかの目に触れさせること、それを持続させることにつながるのだから。最初の「公開する」ボタンを押した瞬間からそれは始まり、あなたが息絶えるまでそれは終わりません。
『人生の土台となる読書』用に書いたけど使わなかった原稿です。僕が影響を受けたダメっぽい先人たちの話です。 そもそも僕がテレビに取材されたりするようになったのは、「京大卒ニートがシェアハウスに住んでネットを駆使して暮らしている」というのがキャッチーだったからだと思う。 ネット経由で、ごはんを奢ってくれる人を募集したり、シェアハウスに住む同居人を探したり、ほしい物リストから物を贈ってもらったり、そういうのが世間には目新しかったのだろう。「新しい生き方」みたいな感じで、いろいろなところで取り上げられた。 だけど、僕自身はそんなに新しいことをやっているつもりはなかった。まともに働きたくない、と言って、いい年してもダメな生き方をしていた人なんて、ずっと昔からいたからだ。 例えば1960年代や70年代ごろは、社会にうまく適応できないダメな人間たちは、フーテンとかヒッピーと呼ばれた。前のページで紹介した
雨宮まみさんについて考えるときいつも浮かぶイメージがある。2011年の年末、初の単著『女子をこじらせて』の刊行に合わせて彼女は、「こじらせカフェ」というゲリラサイン会の告知をブログに投稿した。「特定の日時に喫茶店のテーブルに目印を置いて佇んでいるので、声を掛けてくれれば著作にサインをする」というものだ。 新刊を買ってカフェへ赴くと、雨宮まみが一人でお茶を飲みながら私たちを待っていてくれる。書店や出版社の仕掛けるフェアとは異なり、彼女個人が一対一で、読者とサシで向き合う。面白いことを考えつく人だなぁと思い、当時勤めていた職場のパソコンでブラウザのタブを開きっぱなしにして何度も読み返した。誰が来るかわからないところにたった一人で立って、何が飛んで来ようとも「個」として受け止め、すべてをその場で打ち返す。そういう仕事を有言実行する人は、多いようで、じつは少ない。 直接ご一緒したときの楽しい思い出
とあるブログの読者だった。OLが自虐的に日々を綴っている、エッセイ系のブログだった。 20代後半から30代前半という女性が揺れに揺れる時期を、精一杯の第三者視点で描いていた。何度も何度も泣かされた。 ある日、彼女のブログが書籍化を果たす。ブログに掲載されていなかったエピソードもあると聞き、超微力ながら売上に貢献した。3冊買った。1冊は借りパクされたままだ。 しかし、それで終わりだった。 彼女の名前がハンドルネームからペンネームに変わった後に時々検索をするも、書籍化されたブログ本の特設サイトが最上位に表示、という結果しか反映されない。 久しぶりに特設サイトへと飛んだ。トップページのバナーがところどころリンク切れを起こしている。直リンクされていた画像が表示されていない。 読者プレゼントも絶賛募集中のままだ。絶賛応募できてしまう。しかし応募先のメールアドレスすら、今はもう稼働していないのだろう。
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