アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』にどっぷりハマった論者たちが作品の魅力や秘密を語り尽くす! 宮台真司(社会学者) ◆「まどか☆マギカ」とは「セカイ系」を超越する絆の物語である 1979年に『機動戦士ガンダム』、1995年に『新世紀エヴァンゲリオン』(以下『エヴァ』)とエポックメイキングな作品は15年周期で生まれていて『まどか』もやはり、その流れで出てきたと思います。ちょうど『エヴァ』は’95年の阪神淡路大震災とオウム事件という世紀末感を掬い上げていました。それ以降、「世界」の謎が自分の問題と直結する「セカイ系」と呼ばれる作品が多く生まれました。『まどか』はセカイ系が陥っていた自意識のどん詰まり感を超えていく物語だと考えています。 セカイ系では主人公が周囲から承認されればすべてOKですが、まどかは逆で、周りからは「あなたが承認されるのはこの『社会』しかないから出ていかないで」と言われるんだけ
『週刊東洋経済』を一日早く読んでいるんだけど、今回の特集は「土壇場企業」。さて注目すべき記事は四つで、ひとつはミニ特集だけど児童の貧困などの身近な問題ルポ。河野龍太郎氏の経済を見る眼は日本はもう長期大停滞に入った、というもの(僕は基本的にずっと入っていると思ったんだけど)、ケネス・ロゴフの「そんなに悲観的なのもいかがなものか」という話、そしてライターの福永宏さんの政府紙幣反対論になる。 福永さんの記事の詳細は読んでいただくことにして、政府紙幣の反対の根拠がこの記事には総ざらえであり、基本的に過去の昭和恐慌期のリフレ政策の思想をそのまま継承している政府紙幣発行にこれほど拒否とは、知人の福永さんが書いたものとはいえ、東洋経済としていかがなものかと小一時間。 この福永さんの反対論の根拠も要するに、政府紙幣の発行が、法律で禁止されている日本銀行の国債引き受けと同じである、というものであり、それが禁
方法論的メモ オタク系サブカルチャーの研究をポストモダン社会論として行うことにはそれなりの危険がある。近年のマンガ研究において浮上した「反映論」と「表現論」との対立という偽の構図に照らしていえば、もちろん「表現論」が正しい――というかその次元を踏まえずにはマンガとか映画とか文学を社会学の素材として用いることに意味はない。「反映論」はそれなりに根拠はあるにしても、必ずしも自明ではない前提――芸術作品だのエンターテインメントだのにおいて表現される物語その他の内容が、現実社会において生起している現象、問題を、デフォルメしつつ有意味な形で表現している――に乗っかっている。しかしもちろん、こういう「素朴リアリズムへの信頼」は必ずしも自明ではない。たとえば文学やマンガの中で多重人格が好んで素材として取り上げられているからといって、それが現実における多重人格現象を適切に反映しているとは限らない。 という
「勝利へ導くのは額の汗とあらんかぎりの力」 〜第14回:パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド 「みんな。旗を掲げるのよ、海賊の旗を」 2008年12月26日 金曜日 降旗 学 ポートロイヤルの広場には、町の民が一列に並ばされている。 最後尾はおそらく石垣の外にまで続いているのだろう。列はとても長い。 そこは、かつてジャック・スパロウの絞首刑が執行される予定だった広場である。いまそこに並ぶ人たちは、いずれも鉄の手枷をはめられ、脚を鎖でつながれていた。彼らはポートロイヤルの町の民――、しかし、いまは刑の執行を待つ“死刑囚”として並ばされているのだ。 「憂うべく治安の悪化に歯止めをかけ、民の利益を守るため、英国王の名代たるベケット卿は、この地域一帯に対し非常事態宣言を発令する。よって、戒厳令の定めに従い、暫定的に以下を制定する」 カトラー・ベケット卿の側近が“触れ”を読み上げる。東イ
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