千葉市は、明治末期から太平洋戦争中にかけて、千葉聯隊区司令部、千葉陸軍病院、 鉄道第一聯隊、千葉陸軍兵器補給廠、気球聯隊、陸軍歩兵学校、千葉陸軍戦車学校、千葉陸軍高射学校、陸軍市下志津飛行学校などの軍事施設が設置され、蘇我地先の埋立地︵現川崎製鉄千葉製鉄所付近︶には、軍需工場の日立航空機千葉工場が設置され、﹁軍郷千葉市﹂と呼ばれていた。 太平洋戦争中、千葉市への空襲は数度あったが、米軍が千葉市を目標にした空襲は、昭和20︵1945︶年6月10日と7月7日︵七夕空襲︶の2回であった。この空襲で中心市街地の約7割︵約231ha︶が焼け野原となりました。この2度にわたる空襲により死傷者は1,595人、被災戸数8,904戸、被災者4万1,212人に及んだ。︵千葉戦災復興誌より︶ ︵参考‥昭和20︵1945︶年12月末の人口は、9万5,903人︶