![日本の文化的植民地となった昭和66年のアメリカを描く中国産ゲーム『昭和米国物語』が発表!](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/f1f2a922b28333237904e7093771a3518d9f9274/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fsm.ign.com%2Ft%2Fign_jp%2Fscreenshot%2Fdefault%2Fnekcom-sas-mediakit-kv-hori_1g4c.1200.png)
特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大 戦争終結は「もう一度戦果を挙げてから」(1945年2月)→東京大空襲、全国焦土化、沖縄戦 「海軍にはもう艦はないのか?」(1945年4月)→大和特攻、2時間で4千人戦死 沖縄をアメリカに売った「天皇メッセージ」(1947年9月) 戦争責任は「言葉のアヤ」、原爆投下は「やむを得ない」(1975年10月) こちらの記事へのコメントで要望を頂いた件、面白そうなのでやってみた。 昭和天皇裕仁のクソな「思し召し」と言えば、すぐ思い当たるのはつぎのようなものだろう。 特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大 海軍特攻隊の生みの親と言われる大西瀧治郎は、必ずしも特攻作戦に積極的ではなく、これを「統率の外道」と呼び、こんなことまでしなければ戦えない状況になっていると知れば、天皇が戦争を止めてくれるだろうと期待していたと言
平成生まれの僕が見てきたインターネットの世界 読みました。昭和(1970年代)生まれのオッサン的にもインターネットで話題! とかアオリをテレビや新聞の広告やニュースで見る度に、「ドコのインターネットやねん!」と心の浜田雅功が突っ込む事が多々あるわけで。 でもその一方で、「僕の知っているインターネット」はどういうものだったろう、とも考えた。今の子供たちほどデジタルネイティブな世代とは言えないだろうが、小学生の頃からインターネットに触れていた。今まで、どんなサービスを、どのように使ってきただろう。そんな回顧録。 コレに俺ものっかって、人生ではじめて見たホームページは『餅月あんこのホームページ』という黒歴史を持つオッサンが、使ってきたネットサービスとコミュニティ中心に、備忘録代わりに行う回顧録はじめます。 はじめてのぱそこん1997年10月 手にしたばかりのバイト代から10万円を、キョウエイマー
終戦記念日が近いからというわけではありませんが、今回は私の母方の祖父の軍歴について、ご紹介したいと思います。 祖父は昨年の5月に96歳で永眠しました。 自宅で転倒して、その二日後に亡くなったのですが、誰の手を煩わせることのなかった死に様は、わが祖父ながら実に立派だったと思います。 で、当ブログでも以前に書きましたが、生前の祖父は海軍時代に撮影した写真の行方をずっと気にしていて、私も写真の代わりに祖父の軍歴をはっきりさせておいてあげようと、恵比寿にある防衛研究所図書館史料閲覧室まで行って調べたことがあるのですが、この史料閲覧室での調査はかなりピントが外れたものだったようで、つい最近になって厚生労働省に旧海軍の人事記録が一括で保管されており、孫までの親族ならば「軍歴証明書」を発行してくれることを知ったのです。 そこで早速、祖父の軍歴証明書を発行してもらおうと、厚生労働省に問い合わせたと
引用元:http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1379313809/ 1: ファイヤーバードスプラッシュ(関西地方):2013/09/16(月) 15:43:29.22 ID:Zr3xr//Y0 海軍予科練パイロット今も・・・ 90歳の高橋淳さん 富士山を望む富士川滑空場(静岡市清水区)で、今も週に一度は操縦桿を握っている日本最高齢パイロットがいる。 高橋淳さん(90)。 戦時中は海軍の操縦士で、戦後間もない頃からパイロットを目指す人たちの教官を務め、現在も大空を駆けめぐる。 高橋さんは1922年(大正11年)生まれ。だが、視力や聴力などの航空身体検査も毎年パスし、コックピットで操縦桿を さばく姿からは、この10月で91歳になろうとは想像できない。元気の秘訣ひけつは「7時間以上の睡眠と、腹八分で 食べること」、そして「しゃれっ
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