学問に関するtakahiro_kiharaのブックマーク (7)
-
高校までの勉強の仕方に早く決別をして欲しいので, 著者の過去は棚に上げておいて,最近気になるところを列挙しておく。 印刷するならpdfファイルを。 授業中に理解できないのは先生が悪い: 大学の特に専門科目は 復習無しには理解できないのが普通だ。定理や理論・数式等を すべて﹁自分の言葉に翻訳し直して頭の中に整理する﹂という﹃復習﹄が 必要になる。 良くない言い方だが第1著者の親族の言葉を使うと, 高校までの教諭は教え﹁諭す﹂のが仕事だが, 大学﹇准﹈教授は教え﹁授け﹂ればいいと言うこともできそうだ。呵呵。 実は,ゆとり教育以前から初等教育のレベルが低く︵易しく︶なる一方で, 大学を卒業する時に求められるレベル︵例えば,卒業論文の内容や 就職先が求める能力等︶は下げるわけにはいかない状況,というよりも, どんどん上がっているのが現状だ。 したがって,専門科目に進むにつれて急に内容が難しくなるこ
-
わたしは﹁アメリカではこうで日本はそうではない。日本は異常だ﹂﹁ヨーロッパはこうなのに日本はおかしい﹂﹁おフランスはこんなにすごい﹂とかそういう考え方は基本的に大っ嫌いな人間であります。生理的に受け付けない。 でも、そうではなくて国際的に客観的に違いを見るのは有意義だと思っております。 なんの話をしたいかというと﹁理系﹂と﹁文系﹂のはなし。この辺りを読ませていただいたので。 http://d.hatena.ne.jp/dlit/20110323/1300908667 ﹁理系と文系をわけるのはおかしい﹂っていう話は基本的にはアメリカ的視点ではないかと僕は感じるんですよね。あの国ないよね。別にこのご紹介した記事が、アメリカかぶれであると言いたいわけではありませんよ、念のため。 ここであたくしおフランス在住でございますので披露いたしましょう。フランスには三つあるのでございます。﹁理系﹂﹁文系﹂そ
-
勉強することの意味を尋ねられたらどう答えようかな、などとはよく考えることがあるけれども、今日は特に数学に限定して考えてみようか。先日、数学を勉強するのは論理的思考を養うためだという旨の説明を横耳で聞く機会があって、それも一つの説明だろうなとは思いながら、ただそれだと国語との差別化が難しくなるだろうと感じていた︵実際、その人は数学≒国語だと結論したのである︶。 他の説明︵説得?︶の仕方としては、数学は現に﹁必要﹂になるし﹁役に立つ﹂んだということを示す方法や*1、数学は意味など無くても単純に楽しいものなんだよと見せつけるアプローチなどがあるのだろう*2。ただ、これらは誰にでも当てはまるわけではないという意味で、論理的思考の訓練であるという説明に比して汎用性は低いように思う。そこで、一種のトレーニングのためであるという説明の方向性を維持しつつ、国語とは区別された数学の独自性を損なわない形で論を
-
ある日、真ん中の兄*1と話していました。 俺﹁俺って結構理系っぽい思考パターンしてると思うんやけど﹂ 兄﹁それはない。﹂ 俺﹁何で?論理的な思考は結構得意な方やと思うで?﹂ 兄﹁お前は自分が正しいと思うかどうかで物事を考えてるやろ。 それは典型的な文系型思考パターンや。﹂ この言葉で文系と理系の違いの本質に気づかされ、目の前が晴れた気がしました。 すなわち、文系と理系の違いは 文系・・・考えるときの基準が、自分の内心(自分が正しいと思うかどうか) 理系・・・考えるときの基準が、自分以外の客観的な事実 なのです。 一般に自然科学は理系といわれますが、この分野では実験で得られたデータや観察によって得られた客観的な事象を基に考察します。 一方社会科学や人文科学といったいわゆる文系の分野では、基本的に客観的なデータに基づいて考察することはせず*2、結論を出すに当たっては、客観的な事実と正しい論理を
-
岡田克敏さんの﹁足利事件の一側面﹂を面白く読みました。ここでは、﹁科学的思考の出来ない人が、科学技術の知識を要する判断を平気でやっている﹂ことの問題点を指摘しておられます。論理的、科学的な思考の出来ない人は、たまたま誰かが申し立てた﹁科学技術の知識らしいもの﹂を無批判に信じてしまう傾向があります。こういう人達は、﹁自ら考えて論理的に納得すること﹂をはじめから放棄しているのと、﹁一部の例証だけから原理を導くことは出来ない﹂という﹁科学の世界では当たり前のこと﹂を理解していないからです。 これは、明らかに諸外国よりも日本においてより多く見られる現象です。私は、その一因は、﹁文科系﹂と﹁理科系﹂を殊更に分けているかのような、現在の日本の教育制度にあるような気がします。また、会社などの組織体においても、お互いに﹁自分達の得意分野によそ者を入れたくない﹂といった﹁縄張り意識﹂が働いていることが多いの
-
退学って﹁お願い﹂するもんなんだと初めて知りました.というわけで,前々から 言っていた通りに,大学院に退学願を提出してきました.専攻ではすでに修士論文の提出も 発表も終わっているそうです.いつ行われたのかも知りません.とりあえず4月からはちゃんと就職して働きますのでご心配なく.日本はやさしい国ですね. さて,ここで大学に対する恨みつらみを書いてもしょうがないので, これから︵日本の一般的な︶大学・大学院を目指すという方に対して, これは考えておいた方がいいんじゃないかということを書き連ねておきます. 大学に入って6年しか経っていないし,学会にも行ったことのない人間の 戯れ言ですので聞き流しておいて下さい. **︻さらに追記︼**2 年ぶりになぜか注目されました Twitter が一般にも浸透したんだなぁと勝手に感慨にふけっています。@su319 さんが Toggeter にまとめて
-
大学院生向けの論文指南の名著・酒井聡樹﹃これから論文を書く若者のために﹄︵共立出版、 2002年︶に、こんな一節がある。 ではなぜ︵自費出版やHP上の論文は︶研究成果として認められないのか。それは、 価値の無い論文が氾濫することを防ぐためである。誰でも好き勝手に論文を発表できるのならば、 中身のない論文や独りよがりの論文が世界中にあふれてしまう。これでは、価値のある論文を見つけ出すのが大変である。時間は有限、 貴重な時間を費やして、ゴミの山を調べる暇など無いのだ。 学術雑誌に掲載されていること。それは、その学術雑誌の編集部が、 その論文の価値を保証しているということであり、研究成果として認めているということである。 私たちは、編集部のお墨付きを信用して、限られた読書時間の一部をその論文を読むことにあてる。もちろん、 学術雑誌に掲載されている論文すべてが、本当に価値のあるものとは限らない。真
-
1