9月21日・金曜日の夜、「新潮」編集部から電話がかかってきた。おかしいな、と思った。今月は締め切りがないはずなんだが。イヤな予感がした。おれは、少しの間ためらった後、電話に出た。案の定だ。「新潮45」問題について書いてくれ、というのである。確かに、おれは、その問題についてツイッター上で少しだけ発言をした。それだけだ。面倒くさいし、何のためにもならない。一晩考えさせてくれ、といっておれは電話を切った。でも、おれは引き受けることになるだろう、と思った。「面倒くさくて何のためにもならないことは引き受けろ」は、高橋家の家訓なのである。 書くことを引き受けてすぐ、「新潮45」の休刊が決まった。この問題については、考えなければならないことが多すぎる。休刊の是非、雑誌や出版社、あるいは著者のあるべき姿、休刊の直接的な原因となったであろう小川榮太郎氏の論文の問題点、当該特集号の各投稿それぞれが抱えている異
1 はじめに 林あまり(一九六三~)はプロテスタントのキリスト教徒である。プロフィールには必ずといっていいほどそのことを明記しているし、信仰に関するエッセイなども多数書いている。 キリスト教にとって「愛」とは何か。 新約聖書において「愛」と訳される古代ギリシア語は①アガペー。神の愛、イエスの愛、人間の愛などに用いられる。もとは単なる親愛の情を示す程度の意味であったが、新約聖書で用いられるようになって、神的、自己犠牲的、他者中心的な愛という意味を持つようになった。②フィレオ―。兄弟愛、両親への愛、友情、好みなどを示す。 そして、性的愛を示すエロスという語は聖書中では全く用いられていない。 しかし、林あまりといえばエロスの歌人というイメージで捉えられることが多いのではないだろうか。 生理中のFUCKは熱し 血の海をふたりつくづく眺めてしまう 『MARS☆ANGEL』一九八六年 しばしば「代表作
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