「リーダーシップがない」にうんざり
毎日聞かされる﹁リーダーシップがない﹂という批判に心底うんざりしている。本当によくわからないのだが、﹁リーダーシップがない﹂﹁だらしがない﹂という不満を持つ人は、﹁俺だったらすぐできる!﹂という自信があるからそう批判できるのだろうか。自分の場合、菅首相よりはるかに悲惨な姿になる結果しか想像できないのだが・・・。
そもそも、﹁リーダーシップがある﹂という状態が、自分は今一つイメージできないのである。どこの国のどの首相や大統領が﹁リーダーシップがある﹂のだろうか。たとえば、小泉元首相はリーダーシップがあったのだろうか。彼は確かに国民的人気があり、それにぶら下がる自民党員はたくさんいたと思うが、党員の大多数がそのリーダーシップにつき従っていたとは到底思えない。むしろ、選挙に勝つための看板、お飾りくらいにしか考えておらず、心の底では小馬鹿にしていた自民党員も多かったことは、福田政権以降の経緯を見れば明らかだろう。
実際、﹁リーダーシップがない﹂などという抽象的な批判ばかりが横行しているのは、今のところ菅政権に、これといった重大な失策がないことを証明しているにすぎない。震災対応の批判の内容も、﹁もっと素早くテキパキできねえのか!﹂という、クレーマーの主張と五十歩百歩でしかない。例えば義捐金が素早く分配されないのなら、その原因を分析した上でより効果的な対処法を提示すべきなのに、批判する側は菅政権の﹁リーダーシップの欠如﹂の一言で終わりである。結果的に、単なる﹁やる気﹂と精神論の問題に還元され、分配の基準となる家族の犠牲や住宅損壊の程度などの認定作業を必死で行っている、現場の負担ばかりが重くなる。
ある政治評論家が、現状の政局の混乱を批判しつつ、﹁われわれからすれば政権を担う政党はどこでもいいんですよ、リーダーシップがあれば﹂という趣旨のことを語っていたが、本当に驚き呆れてしまった。当然だが、貧困・失業・過労の問題に冷淡で、子ども手当てなどを﹁バラマキ﹂と攻撃して﹁小さな政府﹂を掲げるような政治家であれば、﹁リーダーシップ﹂があろうとなかろうと自分は大反対である。そんな政策理念はどうでもよく、とにかく﹁リーダーシップ﹂が重要だという物言いは、ほとんど政治の放棄としか言いようがないだろう。
しかし、石原慎太郎の4選など、とにかく政策の理念や内容などどうでもいいから﹁リーダーシップ﹂が欲しいという世論は、﹁3.11﹂以降確かにより強まっている気がする。個人的には、トップは少し頼りなさげで突っ込みどころが多いくらいのほうが、なんとなく日本人の気質に合っているし、全体のバランスをとる上で、余裕があって丁度いいという気がするのだが、どうなのだろうか。
︵追記︶
それにしても、首相や閣僚の失言や不手際をつかまえて、問責決議案や内閣不信任案を提出すること自体が、国会議員にとって一つの﹁ルーティンワーク﹂化している印象がある。﹁被災地を無視した権力闘争﹂と批判されているが、それ以前に、エネルギッシュな権力欲自体が全く感じられないのである。もし外国の人に、﹁野党は何でこのタイミングで不信任案決議を出すのか?﹂と問われれば、﹁彼らがそれが国会議員の仕事だと思っているから﹂と以外に答えようがない。菅首相自身が、野党時代はこのルーティンワークの権化のような人だったわけだが、さすがに﹁もう馬鹿馬鹿しいからやめよう﹂という声が強くならないといけない。
︵不信任案否決を受けて︶
﹁震災をダシにした政局騒ぎ﹂に対する憤りは自分にもあるが、それ以前に、菅首相の退陣を願う国民世論が根強くあることも忘れてはならない。﹁こんなダメな人物を首相に頂いている日本は絶望的だ﹂と、妙な被害者意識にはまっている人は実のところかなりいる。﹁震災をダシにした政局騒ぎ﹂と批判している人も、実のところそうである。
正直言って、自分は世論が首相の何にフラストレーションを感じているのか、いまだにさっぱり理解できないでいる。逆に、震災直後の枝野幹事長の人気も、個人的にはよくわからないところがあった。何をこうすれば世論がついていく、というイメージが、野球の監督や小さなプロジェクトの主任ならまだしも、一国の総理となると本当にわからない。
振り返れば、こうした﹁こんな首相だから日本はダメなんだ﹂という世論は、森政権にはじまるものであり、そして安倍政権以降のどの首相も、菅首相と同じような世論に直面してきたが、自分は共感・理解できたことが基本的にない。自民党の谷垣総裁も、首相だったらほぼ菅首相と同じ世論と党内の突き上げに直面していたに違いない。個人的に、小泉元首相に功績があるとしたら、政局の長期安定をもたらしたことであろうが︵逆に言うとそれ以外は全く何もない︶、派閥など安定化のための装置をみんなぶち壊したまま逃げてしまった感が強い。
民主党というのは﹁反自民党連合﹂でしかなかったのだから、既に歴史的な役割は終えているのであり、早晩解体されるべきだろう。しかし個人的には、解体後の政局を想像すると、やはり当面は今の菅政権が続くのが一番よい、という結論以外にはおよそならないと思う。少なくとも、﹁リーダーシップ﹂﹁指導力﹂とかという抽象的で印象論的な批判しかできないなら、大人なんだからそれくらい我慢すべきだと言いたくなる。
個人的に内閣が早く潰れてほしいと願ったのは、小泉政権後期ぐらいである。現役閣僚から﹁社会問題としての貧困はない﹂という正真正銘の﹁暴言﹂が飛び出して、それが全く問題にもされず、﹁改革で景気が良くなった﹂と自画自賛発言が飛び出しはじめ、教育と社会保障の予算は﹁自立支援﹂の名の下にどんどん削られ、あの頃は本当に怒りと絶望の毎日だった。正直言うと、安倍内閣の参院選惨敗の時ですら、もう少し粘ってもいいんじゃないかと思っていたくらいである。政治というのは経験値が大きく物を言う仕事でもあるので、ようやく仕事を覚え始めたころに変えるというのはリスクが高い、というのが自分の考えである。
︵最後に︶
今回の政局の混乱の根本原因が、震災後も続く﹁リーダーシップがない﹂﹁対応が遅い﹂﹁情報を隠している﹂という、世論のなかに巣食っている現政権に対する漠然とした不満や不信感であることは忘れてはならない*1。現政権︵というか安倍政権以降の政権すべて︶の悲惨なほどの﹁人気のなさ﹂こそが、国会議員を政局騒ぎに駆り立てる最大の誘因である。﹁この国難の時に日本にはなんでこんなひどいリーダーしかいないんだ﹂という被害者意識は国民の中に広く存在しているし、正直なところ自分自身も皆無とは言えない。
だから、﹁リーダーシップがない﹂﹁対応が遅い﹂という、政権不信を煽るような批判を震災後も延々してきたマスメディアが、今になって﹁被災地を無視した政局騒ぎ﹂などと批判するのは、正直ふざけるなと言いたくなる。本当にそう思うなら、政局騒ぎはほとんどベタ記事扱いにして、現政権の震災復興政策を後押しするような報道に徹するべきだろう。政策論など全然勉強もしていない、政局にしか興味がない政治評論家ほど、﹁政局ではなく政策論を﹂﹁国民を馬鹿にした政局騒ぎ﹂と批判する傾向がある。
*1:またあらためて書きたいが、政局の混乱の根本原因をさかのぼると、1993年以降、政治理念や経済的利害の対立軸を制度化することに失敗して、各政党が「改革」のラディカルさや競争に堕してしまったことにある。