どう生きたらいいかを考えさせる本
どう生きたらいいかを考えさせる本などといった話題は書くものではないと思っていたが、ちょっとした機会でもあるので簡単に書いてみたい。
人生とは何かということをもっとも究極的な形で描きだしているのは、ドストエフスキーの﹁カラマーゾフの兄弟﹂︵参照︶だろうと思う。が、これは万人向けではない。皆目わからない人もいる。お薦めはしづらい。
日本人として生きていて、人生で突き当たる本質的な問題を実験的な形で描いていったのは夏目漱石の小説である。極点は﹁明暗﹂︵参照︶だろうが、できれば、その他の小説から読み進めたほうがよい。おそらく日本近代の知識人が抱える本質的な問題が、人によってはということはあるだろうが、自分のことのように問われている。
このブログを書き始めてからはなぜか言及してこなかったが、ドストエフスキーやら漱石といった、いかにも文学というものでなければ、山本周五郎の小説を薦めたい。人情と人生というものの色合いを描き出しているからだ。一昔前になるが、新潮文庫でロングセラーになっているのは太宰治と山本周五郎だと聞いた。日本人は山本周五郎を読むのである。
山本周五郎の傑作は何か。難しいが、三大長編は傑作に近い。私より年上、といっても全共闘世代はあまりまともな読書をしていないのでその上の世代になるが、今の70代の知識人なら大半が読んでいるのは﹁樅ノ木は残った﹂︵参照︶である。そして最後の長編は﹁ながい坂﹂︵参照︶で、これは言い方はよくないが、まっとうに生きようとした人間が突き当たる大きな問題が地味に描かれている。この二冊を読めば、戦後の日本を支えてきた倫理というものがわかる。
この中間にあるのが﹁虚空遍歴﹂︵参照︶である。これは私の人生の書である。才人が才に疑念を持ち、自滅していく物語である。なんの救いもない、ということでもないが、人が自分の人生を歩み始めるときに生じるもっとも本質的な問題を描いている。
﹁虚空遍歴﹂とは似ていないのだが、私の心のなかでは同質の問題としてこれもまた私の人生の書となっているのは、ヴォネガットの﹁チャンピオンたちの朝食﹂︵参照︶である。人生は物語ではない。では人生とはいったいなんなのか。それを根底から描いた、変な小説である。その意味は最後に涙が涸れるまで泣いて理解する。あと一冊人生の書といえるのはヘッセの﹁ガラス玉演戯﹂︵参照︶だが、難解なのでお薦めしない。
﹁虚空遍歴﹂も﹁チャンピオンたちの朝食﹂も、世間的に言えば、こんなネガティブな小説はないというくらいひどいしろものであって、人生はそういうものだと理解した人ではないと読みづらい。遠藤周作﹁彼の生きかた﹂︵参照︶もそれに近い。
もう少し肯定的にというなら、隆慶一郎﹁死ぬことと見つけたり﹂︵参照︶と海音寺潮五郎﹁孫子﹂︵参照︶は痛快で面白く、人生にある達観を与えてくれる。
個別の小説ではなく全集を読むことで得られるある、人の生き方の形というものがある。中島敦全集︵参照︶がよいと思う。高校の教科書の山月記だけではない、ユーモラスで大きな人間としての若い中島敦がいる。
小説では私は、村上春樹の大半を読んでいるし、強く影響を受けたがこうした機会にさして薦めるものはない。評論家としては小林秀雄と山本七平も大半を読んでいるが同様にさほどお薦めということはない。クリシュナムルティの本も英書で大半を読んでいるがお薦めはしない。
小説は苦手だが、この苦しい人生をすごすヒントのような啓発書はないかというなら、﹁ビルとアンの愛の法則﹂︵参照︶を薦めたい。が、どうもこれを良書と見る人は少ないようでもある。いわゆるきれい事の本でもないからかもしれない。
以上の書籍はすでになんらかの形で言及してきた。たぶんまだ書いてことがないものでは、エリクソンの弟子でもあるオハンロンの﹁考え方と生き方を変える10の法則﹂︵参照︶がある。この本はシンプルだが、人生を魔法のように変えうる。
この二冊はすでに絶版のようだ。中古は安価のようでもある。
書架を見渡すと他にもお薦めしたいと思える本がないわけでもないが、まあ、こんなところ。