本日、連合は新しい﹁連合見解﹂を発表しました。その名もなんと﹁歴史の転換点にあたって〜希望の国日本へ舵を切れ〜﹂。﹁連合は、現在危機的な状況となっている経済・社会が、これまでグローバル・スタンダートと言われてきた﹁市場原理主義的な価値観﹂によってもたらされたものであると認識し、この歴史的な転換点において、希望の国日本を実現するため、いまこそ﹁公正や連帯を重んじる価値観﹂へ転換すべきと考えます。連合は、この価値感の転換︵パラダイムシフト︶を広く国民各層にはたらきかけるとともに、運動の牽引者の役割を果たしていくことを、10月23日の中央執行委員会で確認いたしました﹂ということなのだそうで、いまひとつ具体的な意図はよくわからないのですが、おそらくは来たるべき総選挙を意識しているのでしょう。とりあえず、この﹁希望の国﹂という用語は即座に経団連の御手洗ビジョン﹁希望の国、日本﹂を想起させるわけで、なかなか挑戦的というか、対決意欲を感じさせます。まあ、﹁希望﹂はありふれた言葉ですし、神野直彦先生や山田昌弘先生が﹁希望の島﹂とか﹁希望格差﹂とかいった本を書かれていますし、東大社研は﹁希望学﹂をやっていますし、業界ではそれなりに流行のタームでもあるようなので、たまたま重なっただけの話かもしれませんが。
さてその内容ですが、短いものなので全文引用しましょう。
1.情勢認識
︵世界同時危機の様相︶
米国の住宅バブル崩壊に端を発したサブプライムローン問題が引き金となって、世界は同時金融危機の様相を呈している。
今のところ日本経済への影響は限定的との見方もあるが、世界経済と日本経済は連動しており、世界経済の停滞が長期化・深刻化すれば日本経済への影響も計り知れない。
︵暴走する市場原理主義の罪︶
1980年代レーガン政権のとった﹁小さな政府﹂をめざす新保守主義的な政策は、市場原理主義を台頭させ、公正さよりも効率性に重きを置く風潮を強めた。1990年代以降のアメリカ経済の高成長も手伝って、多くの国々がこのアメリカの風潮に追随し、市場原理主義的な政策はグローバル・スタンダードであるという固定観念が作られてしまった。加えて、金融資本主義︵カジノ資本主義︶によって、実体経済を超えるマネーがさらに富を求めて暴走するようになった。
その結果、社会的公正や安心・安全という社会の岩盤が揺らいだ。この間格差は拡大し、貧困が増加した。投機マネーが株式市場を席巻し、株主主権主義が蔓延、企業は必要以上に株主利益への対応を求められるようになった。そして、従業員、地域、取引先などのステークホルダーと企業との絆が弱まった。労働分配率も低下した。競争は熾烈を極め、個人に必要以上の責任を負わせ、ゆとりのない不安と不信の社会を招来、コミュニティーも崩壊した。
︵市場原理主義の終焉︶
しかし、世界を混乱の渦に巻き込んだ常軌を逸した投機行動は、自ら破滅の道を辿った。今回の﹁ウォール街の崩壊﹂は、グローバル・スタンダードと言われてきた市場原理主義の終焉を意味するものである。
今、企業のあり方も問われている。
︵世界は変わろうとしている︶
日本は、世界は、今後どこに向かって進んでいくのか。そして、時代の潮目の中で連合はどのように役割、責任を果たしていくべきなのか。
今年、日本で開催されたG8レイバーサミットでは、世界中を席巻した市場原理主義が社会の基盤である中間層を崩壊させてしまったことへの危機を相互に再確認し合った。そして、世界中に広がる貧困や失業の問題に対処していくため、世界の労働組合が連帯してディーセントワークの実現に取り組むことについてコンセンサスを得た。
アメリカでは﹁チェンジ﹂を掲げるオバマ大統領の誕生への期待が高い。世界は、アメリカは変わろうとしている。日本は変われないのか。
2.希望の国日本の構築に向けて
︵今こそパラダイムシフトを︶
今、歴史的な転換点を迎えている。
今こそ、これまでの価値観を転換すべきである。むきだしの競争社会では人は生きていけない。﹁連帯と相互の支え合い﹂という協力原理が活かされる社会、ぬくもりのある思いやりの社会とするため幅広い国民的な合意を形成していく必要がある。ゆとりのある社会が大切だという価値観へ、株主主権主義からステークホルダー主義への転換をはかり、効率と競争最優先の価値観から公正と連帯を重んじる日本をめざして大きく舵を切るべきである。
︵連合の社会的責任と使命︶
これからの日本には、安定した雇用システムや安心できる社会保障の仕組みの再構築、内需主導型の経済システム、経済・財政運営への転換が不可欠である。もう一度厚い中間層を取り戻し、安全と安心、そして信頼の日本、希望の国日本を実現しなければならない。
グローバル化が進んだ今、もはや自国のみが発展する社会モデルを構築することはできない。世界中の貧困や失業などを共通の問題として捉え、世界の全ての国において、労働の尊厳、公正・公平な社会の実現にむけた国際的な枠組みの構築を進めなければならない。﹁一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である﹂︵ILOフィラデルフィア宣言︶の精神を今こそ実現すべきである。
連合は、労働組合の社会的責任を自覚し、この歴史的な転換点に当たり、今こそパラダイムシフトをはかるべく、広く国民合意の形成に努めていく。そして、﹁労働を中心とした福祉型社会﹂の実現に向け、その運動の牽引者としての役割を果たしていく。
http://www.jtuc-rengo.or.jp/news/kenkai/2008/20081023_1224830124.html
ざっとみると、﹁︵市場原理主義の終焉︶﹂までは一貫してアメリカの話になっています。で、﹁多くの国々がこのアメリカの風潮に追随し﹂と言うのは、日本もそうだ、という意味なのでしょう。
●余談ながら、本当に﹁多くの﹂国々かどうかは、具体的に多くの国名をあげてもらわないと容易には同意できませんが。
しかし、本当に日本はそうだったのでしょうか?﹁今、企業のあり方も問われている﹂﹁日本は変われないのか﹂﹁今こそ、これまでの価値観を転換すべきである﹂で本当にいいのでしょうか?
﹁2.希望の国日本の構築に向けて﹂を読むと、私は激しい既視感を覚えます。おそらく、この10年間くらい労働政策や労使関係をウォッチしていた人の多くがそうなのではないでしょうか。なぜなら、これはこの10年くらい、むしろ旧日経連をはじめとする経営サイドが声高に主張していたことだからです。もちろん、労組も言っていただろうとは思いますが…。たとえば、平成14年の日経連定時総会、経団連との合併をひかえた最後の日経連総会で、当時の奥田碩日経連会長はこう述べています。
近年の日本の社会におきましては、家族や親族、地域、あるいは職場における連帯感は、弱まり、希薄化する傾向にあります。そのため、これらに依存したしくみや制度、たとえば年金や医療保険といったものが、徐々に成り立たなくなってきております。これに限らず、さまざまな場面で、自己責任や自助努力といったことが強調されるようになってきたと思います。
もちろん、自己責任や自助努力は大切でありますが、世の中のしくみをすべて、そういった考え方で作っていこうというのは、あまりに自己中心的で、他人への関心や共感を欠いた考え方であると言わざるを得ません。
私は、これまでの家族や地域といった、いわば限られた身内だけの強い連帯に代わる、社会全体での、ゆるやかな新しい連帯を構築していく必要があるのではないかと思います。その中で、一人ひとりが個性や能力を発揮し、自助努力を積み上げていくというのが、望ましい社会のあり方ではないかと考えるのであります。
︵http://www.nikkeiren.or.jp/h_siryou/2002/20020528.htm︶
﹁社会全体での、ゆるやかな新しい連帯﹂という発言は、財界トップというよりは労組リーダーのようですが、このほかにも奥田氏は類似の発言を繰り返していて、ほかにも、たとえば平成12年の日経連経営トップセミナーの基調講演でもこう述べています。
先程も少し申し上げましたが、私は決して、経営者は株主の利益だけを考えていればよいとは考えません。
むしろ、株主はもちろんですが、その他にも、債権者、取引先、従業員、地域社会などのすべてのステークホルダー、あるいは、もっと大きくとらえれば、地球環境なども含めまして、バランス良く貢献していかなければならないものと考えております。
ノブレス・オブリージュということばがあります。高い地位、高貴な身分には、それ相応の責任が伴う、という意味であると思います。
経営者が貴族のようなものだなどと申し上げるつもりはありませんが、企業は経済活動の主体であり、経営者というのは経済社会のリーダーであります。私はやはり、経済活動の規模、率いる組織の大きさに応じて、相応の社会的責任を負うべきであると思うのであります。
われわれは、天下国家を忘れて、自分自身や地元への利益誘導だけを考えて行動する政治家を、軽蔑をこめて﹁政治屋﹂と呼びます。私は、自分の会社の利益、株主の利益だけしか考えず、従業員の幸せや、企業の社会的責任、幅広い関係者との調和、あるいは経済や国全体の利益を考えない経営トップは、﹁経営者﹂と呼ぶに値しない、﹁経営屋﹂に過ぎないと考えております。
︵http://www.jil.go.jp/mm/siryo/20000804b.html︶
そういえば、当時この基調講演は電機連合のサイトで非常に高く評価されていたと記憶しています︵この部分に対してだったかどうかは自信なし。かつてhttp://www.jeiu.or.jp/sogo/katsudo/kenkai/kenkai07.htmlに﹁日経連トップセミナーの奥田会長講演に対する電機連合の見解﹂があったのですが、今はなくなっているようです。どこかに残っていないだろうか。︶。
ほかにも、探せば奥田氏の類似の発言は多々出てきます。古いものでは、日経連会長就任直後の日経連経営トップセミナーでの講演があります。
今日、国家という次元を超えて、市場の論理、資本の論理が重視されている。こうした論理は、自由経済の発展にぜひとも必要なことはいうまでもない。
しかし、同時に、人間はいつの時代、どの組織にあっても、最重視されなければならない存在であり、市場や資本が人間に優先されることがあってはならないということも、決して忘れてはならない。
現在、雇用の削減を伴うリストラ計画を打ち出せば、株価が上がるという現象が起きている。そうした市場の動きをあたかも﹁神の意志﹂であるかのように報道し、論評するマスコミやアナリストたちの存在が、わが国経済・社会を歪めているのではないか。
私は、国民のマインドやモラルが萎縮していることの根底には、市場重視が行き過ぎて、人間が市場の﹁しもべ﹂になってしまうことへの拒絶反応があるのではないかと感じている。
市場原理の徹底と人間尊重の理念をどう調和させるか、これが我々の取り組むべき最大のテーマである。
市場の論理、資本の論理を重視しながらも、市場関係者の利益ではなく、国民の利益が大切にされるのが、﹁人間の顔をした市場経済﹂であり、﹁創造的で健全な競争社会﹂であると考えている。
最近、ムーディーズやスタンダード・アンド・プアーズなどの格付け会社が、わが国の雇用慣行や、より具体的な人員計画などを理由に、格付けを変更するケースが目立つ。その根本には、わが国の長期安定的な雇用慣行が、環境変化に十分に対応していないという評価があると思われる。
しかし、企業経営のありかた、雇用慣行、労働市場の形というものは、基本的には、各国が智恵を絞って、その独自性を発揮してこそ、真の国際競争が可能になるのではないか。
それぞれの国には、それぞれの歴史や文化、価値観や国民性がある。こうした民族性の長所を生かす仕組みをつくった国が、国際競争の勝者になると思う。グローバル・スタンダードなどという、おかしな和製英語に振り回されて、すべてを他国と同じにしてしまったのでは、国際競争に勝てるわけがない。
︵http://db.jil.go.jp/cgi-bin/jnk01?smode=dtldsp&detail=S19990830018︶
経団連会長になってからのものとしては、著書﹃人間を幸福にする経済﹄にもこんな記述があります。雇用問題に限った議論ではないのですが、考え方としては同じでしょう。
これまで発表されてきた、わが国経済・社会の変革を主張する﹁ビジョン﹂の多くは、個人、すなわち国民に対して﹁自立﹂を求めているように思われます。﹁自己責任﹂で行動し、政府や企業に頼らずに、﹁自助努力﹂で生きていく。これまでの﹁ビジョン﹂が求める﹁自立した個人﹂を一般化すると、こんなことになるのでしょうか。より具体的にいえば、勤め先を解雇されてもすぐに再就職できるように自助努力で職業能力を高めるとか、自己責任で起業して独立するとか、あるいは老後の生活資金は必要最低限以上に公的年金をあてにせず、自助努力で貯蓄し、自己責任で投資するとかいうことが言われています。
しかし、このような﹁自立した個人﹂になれ、というビジョンに対して、大多数の国民が希望を持つことができるとはとても思えません。むしろ、無力感と絶望感を感じる人の方が多いのではないでしょうか。もちろん、自己責任や自助努力は大切ですが、世の中のしくみをすべてそういった考え方で作っていこうというのは、あまりに自己中心的で、他人への関心や共感を欠いた考え方であると言わざるを得ません。私はこれは﹁自立した個人﹂などではなく、﹁孤立した個人﹂にすぎないと思います。
ほとんどの個人は、行政のサービスを利用し、企業に働く場を求め、さまざまな場面で互いに助け合い、支え合いながら生きています。それが人間社会の自然で健全な姿なのです。
したがって、これからは、これまでの家族や地域といった、いわば限られた身内だけの強い連帯に代わる、社会全体での、ゆるやかな新しい連帯を構築していくことが求められると思います。いわば、新しい﹁公﹂をつくるのです。社会保障改革も、NPOなどの非営利部門の育成も、この新しい﹁公﹂をつくるという観点から構想されなければなりません。
一人ひとりの個人は、こうした健全な依存関係を維持し、﹁公﹂の中で求められる役割をきちんと果たしながら、自らの個性や能力を発揮し、自助努力を積み上げていくというのが、望ましい社会のあり方ではないでしょうか。
実は、新ビジョンにも﹁自立した個人﹂ということばはたびたび出てきます。しかし、その意味するところは、従来見られた﹁自立した個人=孤立した個人﹂とはまったく異なります。﹁個人の多様な価値観、多様性を力にする﹂﹁﹃公﹄を担うという価値観を理解し評価する﹂﹁﹃精神的な豊かさ﹄を求める﹂﹁多様性を受け入れる﹂、この4点を理解し、その実現に努力する個人を、新ビジョンでは﹁自立した個人﹂と呼んでいます。
もちろん、これらはことばでいうほど容易なことではありません。多様性
を受け入れるということは、ときに大きな葛藤をもたらすこともあるでしょう。とはいえ、このような、新ビジョンのいう本当の意味での﹁自立した個人﹂の姿は、これまでいわれている﹁自立した個人=孤立した個人﹂の姿に較べて、大多数の国民にとってはるかに共感でき、受け入れられるものではないかと思っています。
︵奥田碩(2003)﹃人間を幸福にする経済―豊かさの革命 ﹄PHP新書︶
ああ疲れた︵笑︶。タイポがあったら失礼…とそれはそれとして、探すとどんどん出てくるのでついつい︵笑︶引用が続いてしまいましたが、連合の﹁希望の国﹂とずいぶん似ていて、それを先取りしていることは事実でしょう。奥田氏は、いまや一部からは﹁格差﹂だの﹁貧困﹂だのの﹁元凶﹂として糾弾されている﹁小泉改革﹂の推進役だったとされる経済財政諮問会議に民間有識者議員として加わっていたわけですが、その奥田氏が実はこういう発言を繰り返していたわけです。考えてもみれば、本当に日本が﹁むきだしの競争社会﹂になっているのか、本当に﹁株主主権主義﹂とか﹁効率と競争最優先﹂が支配的になっているのかといえば、冷静にみればそうとも言えないのではないでしょうか。たしかに、以前の日本が競争や株主、効率を軽視してきたことはたぶん事実で︵連合にしても護送船団方式とか建設談合を復活させろということではないでしょう︶、それらを従来に較べれば重視する方向性の政策が進められてきたことも間違いないのでしょうが、それでは配当を増やすために従業員をバンバン首切りするとか、地方経済への影響などおかまいなしにどんどん工場を海外移転するとか、それらのかたわらで企業経営者が破廉恥な高額報酬を得るとかいうことがジャンジャン行われていたかといえば、それほどでもないわけです︵もちろんまったくなかったなどと申し上げるつもりはありません…それなりにあったことも事実でしょう。ただ、﹁むきだしの競争社会﹂﹁効率と競争最優先﹂とまで口汚くののしるほどのものでもなかっただろう、ということで…︶。
実際、この時期に繰り返し持ち出されてきた﹁解雇規制の緩和﹂については、経団連も企業経営者もなかなか同意しませんでした。今日にいたってもなお、福井秀夫氏が並々ならぬ熱意をもって解雇規制緩和︵というか、撤廃︶を主張していますが、経済界からはさっぱり賛同者が集まらない︵奥谷さんとか宮内さんとかいった少数の変わった人はあるいは違うかもしれませんが‥根拠なし︶のが実態ですから。
●もっとも、雇用重視はもっぱら正社員についてであり、正社員の雇用を重視するために一定の非正規雇用が必要となる、という論点はあります。
奥田氏にしても、かつての﹁ベアゼロ断行﹂が最近あらためて注目されていますが、そこで﹁ベアゼロけしからん﹂と思考停止せずにもう少し考えてみると、これも雇用重視ゆえであったとみることもできるでしょう。奥田氏自身も、経団連会長の退任が近づいた2006年の経団連労使フォーラム︵春闘セミナー︶でこう講演しています。︵もう一つだけ引用をお許しを︶
もうひとつ重要なのが、雇用に対する配慮であったと思います。私が日経連会長に就任いたしましたのは99年の5月でありまして、もう7年近く前になりますが、当時の完全失業率は4.8%に達しておりました。その年の1月に、あるエコノミストが﹃大失業﹄という本を出しておりまして、かなり話題になった本ですので、見かけた方もおられるのではないかと思います。この本には﹁雇用崩壊の衝撃﹂という副題がついておりまして、日本の雇用慣行をアメリカ型のものに変革しなければ、2005年、ちょうど去年にあたりますが、2005年には失業者が約640万人になり、失業率が9.5%になると書いてあります。もちろん、現実にはそんなことは起こらなかったわけでありまして、日本の雇用慣行は全然アメリカ型にはなっていませんし、それでいて2005年、昨年の失業情勢は、まだ統計は出ておりませんが、失業者が300万人ちょっと、失業率は4%台の半ばというところだろうと思います。
とはいえ、私が日経連会長に就任した当時は、こうした意見も声高に主張されていたのであります。私は、日本企業がアメリカのようにどんどん社員を解雇すれば、経済が活性化するどころか、失業率が一気に10%以上に跳ね上がって、深刻な社会不安が発生するのではないかと考えました。そうなれば、企業にとっても国内需要が大幅に減少し、デフレも深刻化して、社会全体がメルトダウンしかねないわけでありまして、私だけではなく、多くの企業経営者も、同じような考えを持っておりました。
そこで私は、日経連会長に就任すると同時に、これまで日本企業が﹁日本的経営﹂の根幹として重視してきた﹁人間尊重﹂と﹁長期的視野に立った経営﹂を今後も守り、雇用の維持・確保に全力を尽くすことを呼びかけてまいりました。いささか下世話な表現ではありますが、経営者に向かっては﹁首切りするなら自分が切腹しろ﹂と訴えたのも、この時期であります。
幸いにして、この私の訴えは、大多数の経営者の支持を得ることができ、多くの企業で雇用維持に最善の努力が尽くされたと思います。もちろん、万やむなく希望退職の募集などに踏み切らざるを得ない企業も多くありましたが、その場合でも、それは最後の手段として位置づけられ、その規模は必要最小限にとどめられ、また、割増退職金などで最大限の配慮が行われることが多かったように思います。もちろん、そこには、各社の労働組合の真摯な取り組みがあったことも忘れることはできません。
このような労使の努力の結果、雇用失業情勢をみましても、たしかに過去数十年間でもっとも厳しい時期ではありましたが、それでも完全失業率の悪化は年平均5.5%にとどまり、欧米諸国のように10%をこえるといった事態を招くことはありませんでした。もちろん、長期にわたる経済の低迷、その中でのかつてない雇用失業情勢の悪化ですから、さまざまな部分で大きな弊害がもたらされたことも、事実であります。経済的な理由による中高年の自殺の増加、就業構造の変化によるフリーターの増加や若年無業者の増加、あるいはホームレスの増加など、いろいろなところにひずみ、ゆがみが出てきており、その対策が急がれていることも、十分理解しております。とはいえ、これらの多くは、経済が回復することで、相当程度改善されることが期待できることも、また事実であります。
そういう意味では、日本社会を、回復不可能なほどのハードクラッシュに陥らせることなく、長期にわたる経済の低迷を乗り切ることができたのは、われわれ民間企業が、いわゆる﹁日本的経営﹂の根幹である﹁人間尊重﹂と﹁長期的視野に立った経営﹂の理念を堅持し、雇用維持に配慮しながら、グローバル化に適切に対応した成果ではないかと思います。
︵http://www.keidanren.or.jp/japanese/speech/20060112.html︶
いささか自画自賛が過ぎる感はありますが、多くの企業経営者が︵﹁株主主権主義﹂とか﹁効率と競争最優先﹂とかではなく︶雇用の確保に相当の努力を払ったことは認めていいのではないでしょうか。
もちろん私は、連合の﹁希望の国﹂がおかしいとか、間違っているとかいうつもりはありません。むしろ、非常にまっとうな方向性であろうと思っています。ただ、あたかも日本が米国並の﹁市場原理主義﹂社会になっているかのような誇張がみられることや、企業をその﹁手先﹂かのように擬制して対決姿勢を強調しているように思えることは残念です。現実には、縷々ご紹介してきたように、企業経営者の中にも連合の﹁希望の国﹂に近い考え方を持つ人が多々いるでしょう。労使関係を大切に考える経営者も多いことでしょう。であれば、連合としても適切に経営サイドと足並みを揃えていくことが、案外﹁希望の国﹂への近道かもしれないからです。連合自身﹁企業は必要以上に株主利益への対応を求められるようになった﹂という認識を持っているわけですから、共闘は十分可能なように思われます。もちろん、当然ながらそこには労使で程度の違いやバランス感覚の違いがあるでしょうが、それをふまえた労使協議はそれはそれで有意義なのではないかと思います。
まあ、選挙前という政治的要請や、そろそろ来年の春季労使交渉も気になる時期という事情はあるでしょう。世の中には低質な経営者や厳しい状況におかれた労働者も多数存在することもまた事実ですから、そうしたミクロの現実にももちろん配慮が必要なのでしょう。とはいえ、昨今︵最近はまたちょっと違うようですが︶の民主党のような画一的全面対決路線に走ることなく、適度な距離感と緊張感を持った労使の対話を大切にしてほしいものだと思います。これは経営サイドにもそれなりの姿勢が求められるわけですが。