いささか旧聞に属する話柄ですが、南日本新聞9月4日社会面に、表題の記事が掲載されました。
同紙ネット記事には掲載されていないようですね。
*↑私の調査不足でした。同紙サイトに記事があります。ただし、紙面の抄録のようです。ここです。
篤姫の初名が通説の﹁一︵かつ︶﹂ではなく、﹁一、市︵いち︶﹂ではないかという点については、すでに中村武生氏も指摘しており、小生も同意したことがありました。中村氏のブログのここです。
今回、崎山健文氏︵黎明館学芸専門員︶によって明らかにされた史料は、尚古集成館所蔵の﹁典姫様日記 寶印御方﹂。 典姫は島津斉彬の娘で、嘉永5年︵1852︶生まれ。のちに重富島津家の珍彦︵忠鑑︶に嫁いだ人でしょう。 その嘉永6年4月5日条に次のように書かれているそうです。
﹁今和泉於市様事、今日篤姫様と被仰出候﹂
篤姫の幼名を﹁於市﹂と書いてあります。これを﹁おかつ﹂とは読まないでしょう。 なお、典姫はこの日記時点で2歳ですから、日記を書けるはずがなく、傅役や乳人など周辺の人間が付けていた日記でしょうね。
さらに﹁日記 表方御右筆間﹂という史料には、天保7年︵1836︶8月5日付に、篤姫の義理の叔母にあたる女性が勝姫︵かつ・ひめ︶と改名したので、以後、﹁勝﹂の字と﹁かつ﹂の呼び名を遠慮するよう通達があったと書かれているそうです。
この改名は篤姫が生誕した翌年です。 篤姫が生まれてから、この改名通達までのおよそ8カ月間だけ、篤姫は﹁おかつ﹂だったかもしれないと、崎山氏はコメントしています。 これで一応、通説と新説を整合させたわけですね。
なお、勝姫は斉彬の妹ということになっていますが、じつは斉彬の祖父・斉宣の娘です。 藩主だった斉宣が父重豪に勘当されたために、その娘たちは兄である斉興の養女となりました。 関白近衛忠煕の夫人である郁君も斉興の娘ということになっていますが、じつは先代斉宣の娘です。
この﹁日記 表方御右筆間﹂には、篤姫の江戸行きの記事もあるそうです。 昨年、中村氏が血まなこになって探していた史料のひとつが出てきたことになりますね。 大坂・住吉神社や鎌倉・鶴岡八幡宮など、島津家ゆかりの地にも参詣しているなど、新たな足取りも判明したとか。 肝心なのは、京都滞在の数日間なんですけどね。 さて、その記述はあるのでしょうか? 新聞記事には書かれていません。
なお、私が以前気づいた史料は、斉彬の側用人日記﹁竪山利武公用控﹂︵﹃鹿児島県史料 斉彬公史料四﹄︶の安政2年︵1855︶条末尾に備忘的に書かれている﹁嶋津安芸家大凡﹂です。 史料名のとおり、篤姫の実家である今和泉家の系譜が簡単に書かれています。その十代忠剛、つまり篤姫の実父の項に、
﹁嫡女 お市 寅十九歳、母同断﹂
とあります。 これが篤姫であることは明らかで、名前が﹁お市﹂だったことがわかります。
もっとも、これには通説と異なる記述もあります。安政2年時点で数え19歳ということは、天保8年︵1837︶生まれということになり、通説より2歳年下になります。また﹁寅﹂が生まれの干支だとすれば、まったく合いません。まさか名前ではないと思いますが……。
今回の発見や中村氏が見つけた﹃仙波市左衛門日記﹄の記事などと合わせると、篤姫を名乗る直前に﹁いち﹂﹁おいち﹂という名乗りだったことは確実だといえそうですね。
それにしても、尚古集成館には﹃鹿児島県史料﹄に収録漏れの、未見の史料がまだまだ眠っている可能性がありそうです。
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篤姫の初名が通説の﹁一︵かつ︶﹂ではなく、﹁一、市︵いち︶﹂ではないかという点については、すでに中村武生氏も指摘しており、小生も同意したことがありました。中村氏のブログのここです。
今回、崎山健文氏︵黎明館学芸専門員︶によって明らかにされた史料は、尚古集成館所蔵の﹁典姫様日記 寶印御方﹂。 典姫は島津斉彬の娘で、嘉永5年︵1852︶生まれ。のちに重富島津家の珍彦︵忠鑑︶に嫁いだ人でしょう。 その嘉永6年4月5日条に次のように書かれているそうです。
﹁今和泉於市様事、今日篤姫様と被仰出候﹂
篤姫の幼名を﹁於市﹂と書いてあります。これを﹁おかつ﹂とは読まないでしょう。 なお、典姫はこの日記時点で2歳ですから、日記を書けるはずがなく、傅役や乳人など周辺の人間が付けていた日記でしょうね。
さらに﹁日記 表方御右筆間﹂という史料には、天保7年︵1836︶8月5日付に、篤姫の義理の叔母にあたる女性が勝姫︵かつ・ひめ︶と改名したので、以後、﹁勝﹂の字と﹁かつ﹂の呼び名を遠慮するよう通達があったと書かれているそうです。
この改名は篤姫が生誕した翌年です。 篤姫が生まれてから、この改名通達までのおよそ8カ月間だけ、篤姫は﹁おかつ﹂だったかもしれないと、崎山氏はコメントしています。 これで一応、通説と新説を整合させたわけですね。
なお、勝姫は斉彬の妹ということになっていますが、じつは斉彬の祖父・斉宣の娘です。 藩主だった斉宣が父重豪に勘当されたために、その娘たちは兄である斉興の養女となりました。 関白近衛忠煕の夫人である郁君も斉興の娘ということになっていますが、じつは先代斉宣の娘です。
この﹁日記 表方御右筆間﹂には、篤姫の江戸行きの記事もあるそうです。 昨年、中村氏が血まなこになって探していた史料のひとつが出てきたことになりますね。 大坂・住吉神社や鎌倉・鶴岡八幡宮など、島津家ゆかりの地にも参詣しているなど、新たな足取りも判明したとか。 肝心なのは、京都滞在の数日間なんですけどね。 さて、その記述はあるのでしょうか? 新聞記事には書かれていません。
なお、私が以前気づいた史料は、斉彬の側用人日記﹁竪山利武公用控﹂︵﹃鹿児島県史料 斉彬公史料四﹄︶の安政2年︵1855︶条末尾に備忘的に書かれている﹁嶋津安芸家大凡﹂です。 史料名のとおり、篤姫の実家である今和泉家の系譜が簡単に書かれています。その十代忠剛、つまり篤姫の実父の項に、
﹁嫡女 お市 寅十九歳、母同断﹂
とあります。 これが篤姫であることは明らかで、名前が﹁お市﹂だったことがわかります。
もっとも、これには通説と異なる記述もあります。安政2年時点で数え19歳ということは、天保8年︵1837︶生まれということになり、通説より2歳年下になります。また﹁寅﹂が生まれの干支だとすれば、まったく合いません。まさか名前ではないと思いますが……。
今回の発見や中村氏が見つけた﹃仙波市左衛門日記﹄の記事などと合わせると、篤姫を名乗る直前に﹁いち﹂﹁おいち﹂という名乗りだったことは確実だといえそうですね。
それにしても、尚古集成館には﹃鹿児島県史料﹄に収録漏れの、未見の史料がまだまだ眠っている可能性がありそうです。
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松裕堂
>同紙ネット記事には掲載されていないようですね。
︻篤姫は﹁おいち﹂? 黎明館学芸専門員が新史料発見︼
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=19109
上件の記事ではないでしょうか。
とりあえずご報告まで。
ありましたね
桐野
松裕堂さん、こんにちは。
私の探し方が足りなかったようです。
ご教示有難うございました。
この記事へのコメント
>同紙ネット記事には掲載されていないようですね。
【篤姫は「おいち」? 黎明館学芸専門員が新史料発見】
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=19109
上件の記事ではないでしょうか。
とりあえずご報告まで。
【篤姫は「おいち」? 黎明館学芸専門員が新史料発見】
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=19109
上件の記事ではないでしょうか。
とりあえずご報告まで。
松裕堂さん、こんにちは。
私の探し方が足りなかったようです。
ご教示有難うございました。
2009/09/07(Mon) 16:24 | URL | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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