現在伝わっている第2期順位戦のルールとは、概ね以下の通りである。
第二期順位戦の開始に先だって、つぎのように規約の改正を見た。
︵一︶A級を十名とする︵総当り先、後二局宛︶
︵二︶B級を二十名とする︵各十二局︶
︵三︶C級を二分し、上位二十名を一組、下位を二組とする︵東、西二組に分け各十二局︶
︵中略︶
A級は八名の先後二局宛のリーグ戦で、優勝者は前年度十二勝二敗と、抜群の好成績をあげてA級入りをした升田新八段で、前例に従うと塚田名人への晴れの挑戦者というわけだが、本年度からA級優勝者即挑戦者ではなく、A級1、2、3位にB級優勝者を加えた四名で、名人挑戦権をあらそうよう規約が改正されたのである。
﹁将棋五十年﹂ 菅谷北斗星 時事通信社 1965
つまり、A級の1,2,3位にB級優勝者を加えた4人で名人挑戦者決定戦を行う、というものだ。
しかし、将棋世界1948年2月号では説明が違う。
将棋世界1948年2月号
將棋放談 順位戦總まくり
中島富治
今度の名人挑戦者は第一位から四位迄の四人が下から順次に三番戰を行つて最後の勝者を之れに當てるのであるが、第一位は簡單に升田ときまり、次で花田が九勝五敗で合格。あと二人を八勝五敗の大野と土居、六勝六敗の木村、B級からA級に突入する大山との二局を繞ぐつて噛み合つて居る。將棋よりも面白い局面を呈して居る。合格の公算は大山に大きく大野土居之れに次ぎ木村に小さい。
A級戰の現状
順位決定戰の白眉、名人位挑戦権を廻る爭いは﹁木村、大野戰﹂﹁木村、土居戰﹂を餘すのみとなりました。殊にB級の優勝大山七段︵十一勝一敗︶のA級に於ける街當成績が九勝五敗と八勝六敗の中間に當るだけに、この二局の勝敗が二位より四位を決定する上に重大な影響を及ぼします。
︵1︶ 木村前名人が双方に勝つた場合
第二位 花田八段︵九勝五敗︶
第三位 大山七段︵九勝五敗と八勝五敗の中間にあるため︶
第四位 木村前名人︵八勝六敗︶
大野、土居両八段も八勝六敗でありますが、前年度の順位が響き上位者優先となります︵木村氏は前年度A級第一位︶
︵2︶ 木村前名人が双方に敗けた場合
第二位 大野八段︵九勝五敗︶
第三位 土居八段︵九勝五敗︶
第四位 花田八段︵九勝五敗︶
︵3︶ 木村前名人が大野に敗け土居に勝つた場合
第二位 大野八段︵九勝五敗︶
第三位 花田八段︵九勝五敗︶
第四位 大山七段
︵4︶ 木村前名人が大野に勝ち土居に敗けた場合は︵3︶の第二位が土居八段に代ります。
中島富治の説明とそれに伴う成績の整理では、B級優勝の大山が名人挑戦者決定戦に進出しない可能性も触れられている。将棋五十年の記述とは異なるのである。
実際どうであったのか知りたかったが、将棋世界では第2期順位戦開始時にルールには触れられておらず、後年振り返った大山升田の自伝などにおいても記述は将棋五十年と変わらないもののため、今まで分からなかった。
ところが、サンデー毎日を掘ってみた所、1948/3/21号において樋口金信が細かく記述している事を発見した。
サンデー毎日1948/3/21
名人位揺ぐか
樋口金信
第六期名人位決定戦ではB級なるが故に、第一位の升田八段︵当時七段︶は挑戦者になり得なかった、ところが、今回はB級でも挑戦者になり得るチャンスが與えられたことだ。
即ちB級者は一局三十点︵勝者百二十点、負者二十点︶を減じた得点によりA級の第四位までに入りうれば、挑戦者となれる。
ベスト・フォアによつて改めて下位者から漸次三番勝敗を行つて改めて挑戦者を決める新制度が設けられていることに注目したい。
十一勝一敗の大山七段の驚異的B級での戦績も減点の結果、A級の五敗者には得点で及ばぬ、この下位に甘んじねばならぬ、A級で五敗以下の勝者が出來れば、問題でないA級のみのベスト・フォアが選ばれることになる。
去る一月末、木村前名人と土居八段の一局が木村前名人の勝利となつた結果、第一位升田八段︵十二勝二敗︶、第二位大野八段︵九勝五敗︶第三位花田八段︵九勝五敗︶第四位大山七段︵B級十一勝一敗︶第五位土居八段︵八勝六敗︶によつて辛くも大山七段の加入が許されたことだ。
ただし、漸次、上位者に三番勝負を挑んで勝ち切るためには、大山七段が僅か一ヶ月間に、九局のそれこそ、生命がけの対局をやつて退けねばならぬ事実は、如何に新進棋士といえども体力的に参つてしまう、事実不可能な過酷なものと見られた。若しや最後に升田、大山の顔合せとなれば、勝敗は五分と五分、伯仲の間にあると断言して憚らぬが、その途中で大山七段の落伍が必然と見られた。
幸といおうか、第三位の花田八段が病気のため棄権となり、●︵註・潰れて読めず︶に第二位大野八段と第四位の大山八段︵原文ママ︶の顔合わせとなり勝者が直ぐ、第一位の升田八段と優勝戦を交える大山七段にとつては、何もかも誂え向きの好條件となつた。
第2期順位戦も、第1期の35点を30点に修正した上での持点制度だったようだ。
この事を踏まえると、第3期順位戦の順位にも合点がいく。
第3期の順位は以下である。
順位 |
名前 |
段位 |
勝 |
敗 |
得点 |
1 |
升田幸三 |
八段 |
12 |
2 |
105 |
2 |
大野源一 |
八段 |
9 |
5 |
84 |
3 |
大山康晴 |
八段 |
11 |
1 |
81 |
4 |
土居市太郎 |
八段 |
8 |
6 |
77 |
5 |
丸田祐三 |
八段 |
10 |
2 |
73 |
6 |
木村義雄 |
前名人 |
7 |
7 |
70 |
7 |
加藤治郎 |
八段 |
7 |
7 |
70 |
8 |
北楯修哉 |
八段 |
9 |
3 |
65 |
9 |
萩原淳 |
八段 |
3 |
10 |
40 |
10 |
松田辰雄 |
八段 |
8 |
4 |
56 |
休場 |
坂口允彦 |
八段 |
- |
- |
- |
松田辰雄八段を除くと、点数通りに並んでいるのが分かる。
なぜ松田八段だけ違うのかというと、将棋五十年の第3期順位発表の項で北斗星が解説している。
A級昇格は最初三名と豫定されていたが、その後、花田八段の逝去により松田︵辰︶八段が補充されたものである。
なお、平均点の加算は前年の三十五点が改正されて三十点となった。
﹁将棋五十年﹂ 菅谷北斗星
松田八段は花田八段の逝去に伴い補充されたので、最後尾についたようである。
気になるのが、この項で唐突に"平均点の加算"という記述がある事。点数が30点と正しくもあり、北斗星自身は第2期順位戦の運用は把握していたのではないか。
なのに何故、将棋五十年では誤った規約を書いてしまったのか。謎である。
第2期順位戦は、当初の予定通り第1期順位戦と同様のルールで開始されていると見ていいだろう。
第1期順位戦について︵ルール編︶←︵七︶以下を参照
>>但し。加減の點数を第一期と同様三十五點とするか否かは未定。
とあるので、サンデー毎日と将棋五十年を読む限り35点を30点に変更した上で開始されたのである。
しかし、この第2期順位戦は、連盟の経済難により路線変更を余儀なくされる。
将棋世界1947年10月号
順位戦非常措置
日本将棋連盟では當面の經濟的苦境に對面し、順位戦の對局數を減じ各棋士の負擔を輕くすると同時に連盟の厖大な對局費用旅費の輕減を計るべく、輕営協議會の賛意を得て、次の如く決定發表した。
一、B級以下各棋士の對局數を一人十二局にて打切る。
二、原則として本年度の降級は行はず成績優秀者のみ若千名の昇級を行う。
三、來年度は本年度の成績を基準として新たなる構想のもとに順位制度の確率を期す。
四、現在決定しある對局以外の手合方法は抽籤により決定す、右によりA級は従前通り一人十四局、B級は一人十二局C級は一人十二局局を限度として對局を打切ることとなつた。元来B級C級共に一人十六局の總當り戰を建前として發足した順位決定戰であるだけにこの非常措置は幾多の矛盾、不公平を生ずるが、豹變する社會情勢に對應し棋士の生活面、連盟會の經濟状態を改善し棋界百年の計を樹てるためには眞にやむを得ざる措置であらう。
この時の変更は、将棋五十年の記述にほぼ沿うものである。
"新たなる構想のもと"とあり、第3期順位戦はB級以下は予選を行う等総対局数の削減を行い、それに伴って持点制度も廃止された、という流れらしい。
その結果、第3期・第4期の順位戦は、B級優勝者が名人戦挑戦者決定戦に参加する事となる。
ただし、第2期順位戦においては最後まで持点制度を採用していたため、順位戦の最終局が山場となるなど、様々なドラマが産まれる事となる。
ここで項を分け、第2期順位戦の最中に起きたトラブルを含め、名人挑戦者決定戦を巡る一連のドラマを次回考えていきたいと思う。