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﹁安楽死﹂について、僕はやはり医者としての立場から逃れられないし、客観的に語ることは難しいのだと思います。 ただ、だからこそ、ひとりの臨床医として、あるいは、癌で親を亡くしたひとりの遺族として、考えていることを書いておきたいのです。
冒頭の幡野さんのエントリのなかでは、こう書かれています。 安楽死のことが話題になると、賛成と反対の議論に陥りがちだ。 反対する人がどんな人たちかというと、まずは医師が多い。 そしてこれはとてもに言いにくいのだけど、ぼくが肌で感じたなかで一番強く反対するのは、家族や大切な人をトラウマや後悔を抱えるかたちで、ガンなどで亡くしてしまった一部の人だ。
この両者の話を聞いて、いい批判も聞くこともたくさんあるのだけど、じつはこの反対する人たちと議論をしてもあまり意味はないのだ。 なぜなら“安楽死”という言葉を想像したとき、賛成する人は自分の命に置き換えて、自分だったら苦しみたくないなぁと、必要性を感じて賛成をする。 反対する人は“安楽死”という言葉で、家族や患者の命で想像するから、死なせたくないという気持ちで反対するのだ。 自分の命と、他人の命。 全く価値の違う目で見ているのだから、議論になりにくく、説得に近くなってしまう。
この文章にある﹁シカゴの娘﹂の話は、現場でも少なからず経験することで、医者や患者の家族が混乱させられることも多いのです。 家族は、苦しんでいる姿をずっと見てきたので、﹁もうラクにさせてあげたい﹂と思っていても、遠くの親戚などは、末期の状態にやってきて、﹁こんなに悪いとは知らなかった﹂﹁まだ何かできることがあるのではないか﹂と主張するのだ。当人にとっては、﹁今初めて、苦しんでいるところを目の当たりにした﹂のだから、そういう気持ちになるのも致し方ないのかもしれませんが。 僕は、癌の患者さんに対する﹁安楽死﹂という概念に関しては、今の日本では、まだ知られていないところが多いように感じています。 スイスやオランダ、アメリカの一部の州では、安楽死が認められている、という知識はあっても、﹁安楽死﹂が実際にどのように行われているのかまで理解している人は、あまりいないと思われます。
「安楽死」について真剣に考えてみたい人は、ぜひ、この本を読んでみていただきたいのです。
![安楽死を遂げるまで 安楽死を遂げるまで](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51aTuEiLj7L._SL160_.jpg)
- 作者: 宮下洋一
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2018/01/05
- メディア: Kindle版
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ヨーロッパで行われている安楽死には厳密なルールがあり、著者が世界各地で﹁安楽死﹂︵あるいは﹁尊厳死﹂︶に関わっている人たちに取材したものを読むと、人の考え方というのは、環境や個人的な経験強く影響されるもので、実際に海外でそれを行っている人たちにも、迷いながらやっているのです。
この本のなかで、はじめて安楽死を行ったという医者が、致死薬を注入したあと、ひどく動揺している様子が紹介されているのですが、医者は、基本的に﹁生かすため﹂にこの職業についているので、﹁直接自分で手を下して人を死に至らしめる﹂ことを望んではいません。
そもそも、そんなことを望んでいる人がいるか、って話ですけどね。僕の場合は、医者として﹁安楽死で致死薬を注入する﹂ことには抵抗があっても、日本における死刑制度に対しては存置派なので、ポジショントークといえばそれまでなんですが。
︵いくら重い罪をおかした人が対象とはいえ︶直接的な恨みもないであろう刑務官にそんなことをさせるのは忍びないから、死刑なんてやめよう、とまでは思わないので。
癌患者と死刑囚を一緒にするな、と言われるかもしれません。
それに、日本で﹁医者が安楽死を行った﹂とされる事例について、その医者がのちに遺族に訴えられ、長い裁判になったことも紹介されています。こういう事例もあるので、医者の側も﹁安楽死には関わりたくない﹂という思いはあるのです。
﹁シカゴの娘﹂が、﹁遺族みんなが同意していたわけじゃない﹂と主張する事例もありますし。
この本を読んでみていただくと、いまの﹁安楽死についての世界的な動き﹂と具体的な事例がわかると思います︵すごい労作だし、良書です︶。 ﹁安楽死の種類﹂について、この本から紹介しておきます。 本書で﹁安楽死﹂と記した場合、﹁︵患者本人の自発的意思に基づく要求で︶意図的に生命を絶ったり、短縮したりする行為﹂を指す。 次に安楽死の種類を明確にしておく。上記の広義の安楽死は、︵1︶積極的安楽死、︵2︶自殺幇助、︵3︶消極的安楽死、︵4︶セデーション︵終末期鎮静︶の四つに分類される。 ︵1︶の積極的安楽死とは、﹁医師が薬物を投与し、患者を死に至らせる行為﹂となる。 ︵2︶の自殺幇助は、﹁医師から与えられた致死薬で、患者自身が命を絶つ行為﹂を指す。 ︵3︶の消極的安楽死は、﹁延命治療︵措置︶の手控え、または中止の行為﹂を意味する。多くの国々で臨床上見受けられる。日本でも老衰患者の胃瘻処置や、末期癌患者の延命措置などで、これに該当する行為が取られる。ただし、これらを規定する法律はない。 ︵4︶のセデーションは、﹁終末期の患者に投与した緩和ケア用の薬物が、結果的に生命を短縮する行為﹂である。国によっては﹁間接的安楽死﹂と呼ばれることもある。たとえば末期癌患者に薬を投与し、意識レベルを下げることで苦痛から解放するとともに、水分、栄養の補給を行わず死に向かわせる医療措置などがある。通常は緩和ケアの一環として行われ、大半は﹁安楽死﹂と結びつかない。 専門的には、狭義の安楽死として︵1︶の積極的安楽死のみを指すことが多い。本書でも自殺幇助と差別化して記す場合などには、﹁安楽死﹂という用語を︵1︶の意味で使用している。 安楽死という用語は、国によって尊厳死と同一視されたり、差別化されたり、まちまちだ。混乱の原因は、各国の尊厳死協会などが使用する﹁Death with dignity﹂という表現、つまり﹁尊厳死﹂︵直訳すれば、尊厳を持って死ぬ︶の解釈に差異があるからだ。スイスやオランダでは、前述の︵1︶や︵2︶で死に至らせることが﹁患者にとっての尊厳死﹂という認識がある。アメリカは逆に、安楽死と尊厳死を同一視することを嫌う。その一方で、日本で言われる尊厳死は、前述の︵3︶に近い。
以前も書いたのですが、日本でも、︵3︶の消極的安楽死に抵抗を感じる人は少なくなってきています。むしろ、﹁延命治療はしないでほしい﹂と本人や家族が希望されることも多いのです。その一方で、︵1︶︵2︶については、いまだ議論そのものが避けられがちです︵その背景には、癌の治療や緩和医療の進歩、というプラスの側面もあります︶。 安楽死というのは、本人だけでなく、それを選択される家族や医療者にとっても大きな精神的負担となるのです。 近年は、緩和医療もかなり進んできていて、末期の癌であっても、痛みや苦しみをある程度コントロールすることも可能な場合が少なくないのです。正直、医療の側が、まだ、鎮痛剤や鎮静剤をうまく使いこなせていない面はありますが。 痛みや苦痛がコントロールできている状態であれば、それでも﹁安楽死﹂したい、と考える人は、かなり減るはずです。 結果的に早く心臓が止まることになっても、家族の同意を得られれば︵本人は同意を確認できない場合が多いので︶苦痛をやわらげるためのセデーションを積極的に行うようにもなってきています。 ﹁どんなに苦しんでもいいから、少しでも長生きさせてくれ﹂という人は、ほとんどいないんですよね。
﹃安楽死を遂げるまで﹄の著者は、実際に安楽死を遂げる前日の患者さんと話をしたり、その瞬間に立ち会ったりもしています。 痛かったり辛かったりするのはわかるけれど、そうやって人と話ができるような状態の時点で、死ななくでもいいのに、と僕は思うのです。 でも、彼らは、﹁自分で自分の死にかたをコントロールして、ちゃんと周りの人にお別れを言って死にたい﹂という強い意志を持っている。 ﹁自分の人生の終わりを自分で決められるのも﹃人権﹄のひとつなのだ﹂という考えを持っている人と、﹁人の命というものは、その人だけのものではない、人は﹃生かされている﹄のだ﹂と認識している人と、どちらが正しいか、決めることができるのだろうか。 日本で﹁安楽死﹂が受け入れられにくいのは、﹁自分の生命は、自分だけのものではない﹂という意識が根底にあるのかもしれません。 それが正しいとか正しくないとかいうのではなくて、﹁自分のことだから、死ぬタイミングも自分で決めたい、決めるべき。それではじめて、自分の人生は完結する﹂という考え方を持つ人々、持つ国々と同じ感覚には、なかなかなれない。 前述した﹁広義の安楽死﹂のなかで、︵3︶︵4︶については、日本でも、ある程度︵暗黙の了解的に、ではありますが︶認められてきており、意見が分かれるのは、︵1︶の積極的安楽死や︵2︶の自殺幇助を認めるべきかどうか、なのでしょう。 実際のところ、﹁いつでもラクに死ぬことができる﹂というのは、癌の患者さんにとっては、少しでも気持ちの余裕を生むのではないか、とも思うのですが、個人的には、︵1︶はやっぱり、医療者としてはやりたくない。︵2︶で、たとえば、致死薬が入った点滴をセットして、その点滴を注入するスイッチを押すのは患者さん自身にやってもらう、ということなら……うーん、やっぱり、その準備もやりたくはないなあ。それが﹁医者の仕事﹂と定義される世の中になれば、僕はたぶんやると思いますが、自分から積極的にやりたくはない。 安楽死の場合、周囲が勝手に判断することは許されないと思うので、﹁自分で意思を決定できるうちに、自分の選択として死を選ぶ﹂ことになるのですが、﹁自分で意思を表明できるくらいの状態であれば、死ぬのはもったいない﹂とも考えてしまうのです。 患者さんが自分自身の選択として、﹁安楽死﹂を希望するのであれば、それは、尊重されるべきでしょう。 ただ、人間の思考というのは、そんなに安定したものではなくて、﹁もう死んでしまいたい﹂と﹁まだ生きたい﹂の間を揺れ動いていることも少なくない。それに対して、﹁死﹂というのは、不可逆的なものなのです。 それを考えると、どんなに話し合ったとしても、100%満足できる死に方、というのはありえない。 これでよかったんだ、と思えるか、あるいは、人の死というのは、そういうものなのだ、割り切れるか。 ﹁宗教﹂というものを信じられなくなってしまった人間は、﹁死﹂に直面せざるをえない。 ひとりの医者としては、麻薬の使い方やセデーションについて、もっと腕を磨かなければ﹂と思っています。 本当に﹁積極的安楽死﹂か﹁自殺幇助﹂しか方法がない事例や状況って、そんなに多くはないはずです。
この本を読んでみていただくと、いまの﹁安楽死についての世界的な動き﹂と具体的な事例がわかると思います︵すごい労作だし、良書です︶。 ﹁安楽死の種類﹂について、この本から紹介しておきます。 本書で﹁安楽死﹂と記した場合、﹁︵患者本人の自発的意思に基づく要求で︶意図的に生命を絶ったり、短縮したりする行為﹂を指す。 次に安楽死の種類を明確にしておく。上記の広義の安楽死は、︵1︶積極的安楽死、︵2︶自殺幇助、︵3︶消極的安楽死、︵4︶セデーション︵終末期鎮静︶の四つに分類される。 ︵1︶の積極的安楽死とは、﹁医師が薬物を投与し、患者を死に至らせる行為﹂となる。 ︵2︶の自殺幇助は、﹁医師から与えられた致死薬で、患者自身が命を絶つ行為﹂を指す。 ︵3︶の消極的安楽死は、﹁延命治療︵措置︶の手控え、または中止の行為﹂を意味する。多くの国々で臨床上見受けられる。日本でも老衰患者の胃瘻処置や、末期癌患者の延命措置などで、これに該当する行為が取られる。ただし、これらを規定する法律はない。 ︵4︶のセデーションは、﹁終末期の患者に投与した緩和ケア用の薬物が、結果的に生命を短縮する行為﹂である。国によっては﹁間接的安楽死﹂と呼ばれることもある。たとえば末期癌患者に薬を投与し、意識レベルを下げることで苦痛から解放するとともに、水分、栄養の補給を行わず死に向かわせる医療措置などがある。通常は緩和ケアの一環として行われ、大半は﹁安楽死﹂と結びつかない。 専門的には、狭義の安楽死として︵1︶の積極的安楽死のみを指すことが多い。本書でも自殺幇助と差別化して記す場合などには、﹁安楽死﹂という用語を︵1︶の意味で使用している。 安楽死という用語は、国によって尊厳死と同一視されたり、差別化されたり、まちまちだ。混乱の原因は、各国の尊厳死協会などが使用する﹁Death with dignity﹂という表現、つまり﹁尊厳死﹂︵直訳すれば、尊厳を持って死ぬ︶の解釈に差異があるからだ。スイスやオランダでは、前述の︵1︶や︵2︶で死に至らせることが﹁患者にとっての尊厳死﹂という認識がある。アメリカは逆に、安楽死と尊厳死を同一視することを嫌う。その一方で、日本で言われる尊厳死は、前述の︵3︶に近い。
以前も書いたのですが、日本でも、︵3︶の消極的安楽死に抵抗を感じる人は少なくなってきています。むしろ、﹁延命治療はしないでほしい﹂と本人や家族が希望されることも多いのです。その一方で、︵1︶︵2︶については、いまだ議論そのものが避けられがちです︵その背景には、癌の治療や緩和医療の進歩、というプラスの側面もあります︶。 安楽死というのは、本人だけでなく、それを選択される家族や医療者にとっても大きな精神的負担となるのです。 近年は、緩和医療もかなり進んできていて、末期の癌であっても、痛みや苦しみをある程度コントロールすることも可能な場合が少なくないのです。正直、医療の側が、まだ、鎮痛剤や鎮静剤をうまく使いこなせていない面はありますが。 痛みや苦痛がコントロールできている状態であれば、それでも﹁安楽死﹂したい、と考える人は、かなり減るはずです。 結果的に早く心臓が止まることになっても、家族の同意を得られれば︵本人は同意を確認できない場合が多いので︶苦痛をやわらげるためのセデーションを積極的に行うようにもなってきています。 ﹁どんなに苦しんでもいいから、少しでも長生きさせてくれ﹂という人は、ほとんどいないんですよね。
﹃安楽死を遂げるまで﹄の著者は、実際に安楽死を遂げる前日の患者さんと話をしたり、その瞬間に立ち会ったりもしています。 痛かったり辛かったりするのはわかるけれど、そうやって人と話ができるような状態の時点で、死ななくでもいいのに、と僕は思うのです。 でも、彼らは、﹁自分で自分の死にかたをコントロールして、ちゃんと周りの人にお別れを言って死にたい﹂という強い意志を持っている。 ﹁自分の人生の終わりを自分で決められるのも﹃人権﹄のひとつなのだ﹂という考えを持っている人と、﹁人の命というものは、その人だけのものではない、人は﹃生かされている﹄のだ﹂と認識している人と、どちらが正しいか、決めることができるのだろうか。 日本で﹁安楽死﹂が受け入れられにくいのは、﹁自分の生命は、自分だけのものではない﹂という意識が根底にあるのかもしれません。 それが正しいとか正しくないとかいうのではなくて、﹁自分のことだから、死ぬタイミングも自分で決めたい、決めるべき。それではじめて、自分の人生は完結する﹂という考え方を持つ人々、持つ国々と同じ感覚には、なかなかなれない。 前述した﹁広義の安楽死﹂のなかで、︵3︶︵4︶については、日本でも、ある程度︵暗黙の了解的に、ではありますが︶認められてきており、意見が分かれるのは、︵1︶の積極的安楽死や︵2︶の自殺幇助を認めるべきかどうか、なのでしょう。 実際のところ、﹁いつでもラクに死ぬことができる﹂というのは、癌の患者さんにとっては、少しでも気持ちの余裕を生むのではないか、とも思うのですが、個人的には、︵1︶はやっぱり、医療者としてはやりたくない。︵2︶で、たとえば、致死薬が入った点滴をセットして、その点滴を注入するスイッチを押すのは患者さん自身にやってもらう、ということなら……うーん、やっぱり、その準備もやりたくはないなあ。それが﹁医者の仕事﹂と定義される世の中になれば、僕はたぶんやると思いますが、自分から積極的にやりたくはない。 安楽死の場合、周囲が勝手に判断することは許されないと思うので、﹁自分で意思を決定できるうちに、自分の選択として死を選ぶ﹂ことになるのですが、﹁自分で意思を表明できるくらいの状態であれば、死ぬのはもったいない﹂とも考えてしまうのです。 患者さんが自分自身の選択として、﹁安楽死﹂を希望するのであれば、それは、尊重されるべきでしょう。 ただ、人間の思考というのは、そんなに安定したものではなくて、﹁もう死んでしまいたい﹂と﹁まだ生きたい﹂の間を揺れ動いていることも少なくない。それに対して、﹁死﹂というのは、不可逆的なものなのです。 それを考えると、どんなに話し合ったとしても、100%満足できる死に方、というのはありえない。 これでよかったんだ、と思えるか、あるいは、人の死というのは、そういうものなのだ、割り切れるか。 ﹁宗教﹂というものを信じられなくなってしまった人間は、﹁死﹂に直面せざるをえない。 ひとりの医者としては、麻薬の使い方やセデーションについて、もっと腕を磨かなければ﹂と思っています。 本当に﹁積極的安楽死﹂か﹁自殺幇助﹂しか方法がない事例や状況って、そんなに多くはないはずです。
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