大﹁變﹂ご無沙汰しております。社主持田です。当サイトの更新ならびに念願の野川隆集のストア公開がままなっておりませんが!お待ち下さいませ!凡てはいつのも如く公私にわたる諸事情の結果の社主の﹁怠慢﹂です。近日出します︵出せるはず︶!
しかし今回遅れております事がもっけの幸いで、国立国会図書館デジタルコレクション館内限定データでの目次記載漏れで発見できていなかった最初期﹁風の詩人﹂﹁沼の水蒸気﹂大正11︵1922︶年の詩作二編を回収できましたので、前期野川隆詩片はどうやらコンプリートできた模様です。外字の他の環境によっては見られない可能性のある非常用漢字や記号整理で手間どっておりますが、また少々﹁野川隆とその時代﹂論を画策もしておりますが、なにはともあれ急ぎます。
Contents
今回は「レッド」でも「ブラック」でもなく「ピンク」
といったわけでありますが、今回もやはり野川中期調査と平行しつつ、前回に続き﹁變態光波﹂の井東憲調査を諸々進めている中で、さらに傍流に流れまして︵本流かもしれませんが︶、まあ僕の個人的趣向として過去一貫して戦前期﹁赤色︵コミュニズム︶﹂や﹁黒色︵アナキズム︶﹂作物が多いわけですが、もっとも正確に云えば﹁赤色﹂﹁黒色﹂未然のワアっと沸いた都市の渾沌渾然としたマージナルな作家らに惹かれているわけですが、今回はその流れで以前から取り上げよう思いながら放置していた﹁桃色︵エロ︶﹂の方を取り上げます。もっとも正確に云えばこちらも﹁桃色﹂未然のものです。なにはともあれ春であります。
実際、変電社の事に起こりにおいても﹁桃色﹂方面は重要な宿題として認識はしており、最初期2012年末の変電社日記﹃日本歓楽郷案内﹄﹃異国風景浮世オン・パレード﹄を取り上げ、前回でも一部触れたように、酒井潔﹃エロエロ草紙﹄webブレイクしたのが変電社契機でもある関係でやがて触れなければぬ珍書軟派本領域とは思っていました。今回はようやく、﹃エロエロ草紙﹄作者たる酒井潔の盟友であり歳下の師でもあり、当時官憲側から﹁正気の狂人﹂と称された梅原北明を取り上げます。所謂エロ・グロ・ナンセンスの巨人でありますが、プランナープロデューサー的に立ち振る舞った北明では珍しい初期﹁小説﹂作品を中心に、NDLデジコレ紹介1本と&bib/i公開3本紹介で参ります。で、この北明調査の中で非常に重要なことを思い出ささせていただきました。
村山知義と井東憲が仲良く並んで記載
そしてこの二人をつなげたのが、この表紙の中央で群集に取り囲まれている和服姿で眼鏡の男—﹁文藝市場﹂首領の梅原北明です。
この梅原北明と邂逅した時のことを、後に村山が書いてます。
彼は顔色の蒼白い、痩せた、むしろ小男であった。極度の近眼らしく、大きな眼鏡をかけ、青蛙のような顔をした男だった。おしゃべりで、人の気持ちにかかわらず、自分の考えだけを述べ立てる人で、何かに魅かれている男のように思えた。 ﹁おれは天ちゃんと同い年に生まれた。そうか、じゃ、君と同い年だ。一月の生れ?そうかじや同じ月だ﹂と初めて会った時いった。蝶ネクタイをし、古いタキシードを着ていたと思うと、ヨレヨレの着物姿であった。
—村山知義﹁文藝市場の頃﹂文藝市場復刻別冊解説 日本近代文学館
ここで﹁あっ﹂と思った。北明が村山知義と同世代であることすなわち20世紀跨ぎ生まれ世代であることの発見よりも、
﹁おれは天ちゃんと同い年に生まれた﹂
嗚呼…何故忘れていたのか?
そう私が勝手に名付けた﹁20世紀跨ぎ生まれ世代﹂を等記号で人物﹁X﹂と結べるのでした。
そう﹁X﹂=﹁天ちゃん﹂です!
もうおわかりかと思いますが、すなわち﹁昭和天皇﹂であります!北明にとってこの不敬なる﹁天ちゃんと同い年﹂が口癖だったそうですが、つまり﹁20世紀跨ぎ生まれ世代﹂とは﹁昭和天皇の世代﹂だったんですよ!﹁昭和の世代﹂ではありません。﹁天皇の世代﹂でもなく、﹁昭和天皇迪宮裕仁の世代﹂です。嗚呼!今更気がつくとは!!
北明が言うように昭和天皇迪宮裕仁は1901︵明治34︶年4月29日御生誕です。今も国民の祝日﹁昭和の日﹂たる4月29日。その1901︵明治34︶年の同年、1月15日に梅原北明、3日後18日に村山知義が生まれ、昭和の天長節︵天皇誕生日︶4月29日の僅か6日前23日に野川隆が生まれたわけです。
しかも僕が取り上げた他の同世代人の中で1989年︵昭和64︶年1月7日まであたりまえながら﹁昭和が終わる日﹂までご長命であられた。僕が生後の高度経済成長期後の昭和後期をも生き僕の知る他の同世代人物の中でももっとも親し︵?︶くあった人物です。どうして忘れていたのか?
さらに過去さんざん参考にさせてもらっているWikipediaの1901年誕生者リストにも昭和天皇の誕生日は明記されており、
昭和天皇記載あり
4月29日同日生まれたるかの尾崎秀実はゾルゲ事件における同世代論として調査対象だったわけで、何故に昭和天皇を見落としたのか?
また棚の福田一也﹁昭和天皇 第一部 日露戦争と乃木希典の死﹂においては第二章﹁二十世紀の子﹂というタイトルまであり、その冒頭が、
迪宮裕仁、のちの昭和天皇は、明治三十四︵一九〇一︶年、つまり二十世紀最初の年の四月二十九日に生まれた。
—福田一也﹁昭和天皇 第一部 日露戦争と乃木希典の死﹂2008年8月
にも係わらず、僕はうっかり見過ごしていたのであります。深い反省の中で、僕の記憶の構造に重要な欠陥があるような気がしておりますが、なにはともあれここで思い出せて良かったと安堵もしています。﹁野川隆とその時代﹂を書く前でよかった。
﹁世界文藝史上最初の試み﹂という原稿叩き売り現場
この群集に取り囲まれた北明がここで何をしているかというと、﹁世界文藝史上最初の試み﹂と売り文句で不意に街頭ゲリラ的に行われた﹁生原稿の叩き売り﹂です。出典不明ながら村山知義が新聞の切り抜きスクラップの中の記事として以下を紹介していますのでそのまま引用します。非常のその空気がよくわかります。
枯川老の原稿、三枚で三円半也 文藝市場での逸品 二束三文で投売でも一夜の売上百五十円の大景気 ﹃世界文芸史上最初の試み﹄と云ふふれ出しで、金子洋文伊藤憲梅原北明村山知義なんどの連中が十日午后四時半から京橋でプロ分子評論家の原稿プロ画家の画稿等を、どこからか集めて来て、その夜店を開いた。挑発にロイド眼鏡の主催者はビールの空箱の上に戸板を並べ、背後には構成派風の大型の紙に﹃文藝市場﹄と大書して店をひろげる、またゝく間に用のなさそうな行人が足をとめて黒山、交通巡査までが飛んで來るといふ騒ぎ。伊藤君が先ず空箱の上に立つて﹃さあ、津田光造の新世紀論、原稿三枚半でいくら!﹄とどなると﹃十銭!﹄と答へる﹃オイ十銭は可哀想だもつと買へ﹄と言った調子で、村山知義の画が一円で売れる頃はまだ無難であつたが、すぐ真向ひの京橋署から﹃交通妨害似鳴るから﹄と注意されてとうとう警察横に移る、新進作家菅忠雄の原稿五枚半で二十銭でたゝき売られた後で﹃さあ今度は﹃堺利彦の原稿三枚いくら﹄﹃五銭﹄と呼ぶ奴があつたが、遂に三円五十銭、これが当夜の最高値を呼んだものゝ﹃お次は松竹のスター栗島澄子の亭主池田義信の原稿、いくら﹄忽ち十五銭で売り飛ばされる、中には値段をつけて姿を消す奴がある、﹃そんならおれが買ってやらう﹄と五十歳余りの職人が構成派の絵を不思議そうに見て持ってゆく、売行芳しくないと見るや﹃岡田三郎と間宮茂輔、山田清三郎、こみでいくら﹄と来るでも午后八時店を閉めるまでは大枚百四十五円の売上があつた﹃この調子だと今に同業をもくろむ奴が出るよ﹄と一同早くも先きの心配をする程の上景気だった
しかも場所が﹁京橋の警察署横﹂というのが何とも北明らしい。だいたい今の金額に換算すると一晩で100万円くらいの売上でしょうか。﹃この調子だと今に同業をもくろむ奴が出る﹄ということはその後なくかえって既成文壇人からは顰蹙を買ったわけですが、今のコミケまたは文フリ等の直接販売のイベント思想そのものです。
このずばり﹁文藝市場﹂︵ずばりマーケット!︶と名を打った雑誌看板の北明の﹁文藝市場社﹂はその後も様々な新機軸を打ち出しますが、北明だけでなく村山知義井東憲も執筆者として参加した﹁變態十二史﹂シリーズは限定五百部のサブスクリプション制販売が6000件に近い申仕込みがあり﹁文藝市場﹂自体がなかなか捌けずに経営難に陥っていた文藝市場社の窮地を救ったとも言われています。
︻猛省!︼社主がうっかり見落としていた﹁X﹂︻慚愧!︼
つまるとこ、今まであまりにもこの時代の巨大な登場人物﹁X﹂を見落としていたのです。その発見経緯について後段で説明いたますが、というのも僕はその人物のその事実を知っていたからなのですが、にもかかわらずぼんやりと見過ごして居たことに驚いているのです。歴史というのはなんかこう、知っていた事実を忘れる、知っていた事実を見落とすものなのか? そもそもなぜ今頃梅原北明を取り上げるのか?と云うと、前回記事の井東憲﹃贋造の街﹄大正14︵1925︶というdopeでcoolな詩に中の一節 ﹁あの幻想狂の、意識的構成派の畫家は、私のことを……もつとも、そのかけてゐたセルロイドの眼鏡は、ほんの間に合わせに、夜店で買つたものだが……女に捨てられた怜悧な蜻蛉にたとへた。﹂ ﹁意識的構成派の畫家﹂とは間違いな村山知義のことですね。本当に皆が近くに居たのだと。 —︻20世紀跨ぎ生まれ世代の兄達1894ー5︼二人の﹁江戸川亂歩﹂と井東憲﹃贋造の街﹄ならびにカフェ﹁變態光波﹂開店宣言︻都市と變態︼2015年1月18日 と作内に村山知義が登場してくることに、僕は軽く触れて流した。のですが、面目ないことに社主持田の勉強不足です。村山知義と井東憲はそもそも近くに居たも何も二人して﹁文藝市場﹂の同人です。以下の表紙は文藝市場第二号ですが﹁作品市場﹂で村山と井東の名が仲良く並んでおります。その世代論は近日トルタル6号にて!
この想起により僕の中では、ある点と点を線として結んだ先の﹁面﹂にまでようやく持って行けた感があります。以前より取り上げた﹁世代論﹂は過去な記事で折々の余談として触れておりますが、 ●︻秋の変電書月間’14︼﹁村山知義の強引﹂ゲオルク・カイゼル作/北村喜八訳﹃朝から夜中まで﹄︻オチとしてのウォーク・ディス・ウェイ︼﹂ ●︻変電社復刊宣言予告︼野川隆と橘不二雄と﹁白山の野郎ども﹂︻橘不二雄﹃腕の欠伸﹄文化庁裁定に送り出すよ宣言︼ ●︻謹賀新年︼第二期變電社ロンチ宣言と正月余談として勝承夫﹃駅伝を讃えて﹄と野川隆﹃旋風﹄フォークゲリラ︻變電社第7宣言︼< ● ︻20世紀跨ぎ生まれ世代の兄達1894ー5︼二人の﹁江戸川亂歩﹂と井東憲﹃贋造の街﹄ならびにカフェ﹁變態光波﹂開店宣言︻都市と變態︼ 上のゾルゲ事件尾崎秀実の他、何人かさらに追加したい同世代人物を加えてあのジェネレーションを一度整理したいと思っております。今回はこちら予告として。次回5月リリースのトルタル6号に變電社からは﹁20世紀跨ぎ生まれ﹃X﹄とその世代﹂試論を書こうと思い立っておりますが、困ったことに現在締切間近で一文字も書いておりません!どうしよう!が景気よくやはり以下のT.RexをBGMで参りましょう!梅原北明について
さて、戦後かの発禁本猥褻本研究の大家であり﹁書痴﹂斉藤昌三に﹁軟派の出版界に君臨した二大異端者を擧げるなら、梅原北明と宮武外骨老の二人に匹敵する者はまずない。その実績に於て北明は東の大関﹂︵斉藤昌三﹁三十六人の好色家―性研究家列伝 (1956年)﹂︶と言わしめ、当時の出版法違反で発禁・罰金回数でかの外骨を圧倒的に上回るレコードを叩き出して、当局も心底手を焼いた﹁猥本の出版狂﹂です。戦後まで生き延びるものの大量に出回った廉価カストリ雑誌などの戦後出版を手がけることもなく、虱に嚙まれたが元で発疹チフスで昭和21︵1946︶年4月に死去しております。享年45歳。 結果、すべてパブリックドメインということで、NDLデジコレにも作品が多数眠っております。ここに本名梅原貞康から﹁梅原北明﹂として世に出た処女出版であり最初期の﹁惡魔主義﹂を標榜していた頃の非常に珍しい小説﹁殺人会社. 前編﹂︵アカネ書房 1924︵大正13︶年︶が読めるのですから、NDLデジコレは偉大です。 なのですが、検閲後による伏せ字本になってますので相当に切り刻まれて︵何を書いたのか?というレベルですが︶よく文意が通じない所もあります。ので読んでみようと思う方はご注意ください。梅原北明﹁殺人會社﹂
﹃殺人会社. 前編﹄︵コマ数165︶ 著者‥梅原北明 発行日‥大正13︵1924︶年11月 出版社‥アカネ書房 国立国会図書館デジタルコレクション ちなみにこちらそもそもで﹁前篇﹂しかありません。相当クレイジーな作品で暗殺を請け負った殺し屋が、日本人移民から黒人運動家から白人レイシストと片っ端から殺戮し、沸騰する鉛の池に放り込んだり人肉缶詰にして売りさばいたりとありとあらゆる手口で処理していくという、大変に荒唐無稽な作品ですが、なんともタランティーノ映画を見るような、猛烈な勢いでまくし立ててくる﹁陽気な暗黒性﹂とでもいいますか、北明の壊れ具合が妙に解る作品です。 この扉の﹁悪魔主義全盛時代﹂という大層な副題の下のエピグラフを引用します。 八百八萬の神々を頭から馬鹿にしきつて人間と云ふ人間を、けだものの如くに尻にひいて、蔑けり貫とおした或る男が、死に臨んで此の世の中へ殘した最後の言葉は﹁俺は、これ限り蛆虫の世界とは絕緣してやる﹂ 人間達﹁そんなら何處げ行くんです﹂ その男﹁きまつてるぢやないか?極楽へさア。そして俺は、其處の平和の攪亂者になるんだ﹂ —﹁殺人會社﹂1924︵大正13︶年11月 この宣言どおり大正から昭和にかけて﹁平和の攪乱者﹂たる使命は果たしたと言える北明ですが、一方でこの中二的幼稚さとも取れる﹁惡魔主義﹂の美意識に終始しているわけではありません。黒人差別の問題と水平社の問題を同等に論じる視点などアクチュアルな問題意識があります。ただその回答に一貫する﹁反骨﹂=あらゆる﹁権威﹂への拒否のみならず、﹁正義﹂や﹁公正﹂や﹁善意﹂というものを、ある種の今でいうポリティカル・コレクトネス的なものを、せせら笑い﹁力﹂もしくは﹁自力﹂を賛美し、それはまた﹁市場主義﹂へと直結します。 資キャ本ピタ主リズ義ムが如ど何うであらうが、ナショナリズムがく﹅た﹅ば﹅らうが、そんな事にはお構ひなしだ。組織そのものが金だ。コンマシヤリズムに出發してゐるのだ。斯う云つた方が一番早道かも知れぬ。純然たる會社組織だ金を儲けるための祕密結社である。だから俺達は祕密結社とは云はずに The F murder Joint Stock Company つまりF殺人會社と呼んでゐるのだ —﹁殺人會社﹂14コマ目 1924︵大正13︶年11月 他にも語り手﹁三太郎﹂の台詞を抜粋していきますと、 ﹁革命なんて厭なこつた。それより自分が自分で力强くなることに心がけりア其れで好いと僕が思ふね。つまり各に惡になればいいんだ。資本家も惡魔なら、勞働者も惡魔になりアいい。プロもブルも猫もないのだ。世の中は惡の結晶だ。虚偽と欺瞞の塊なんだ。いくら其の中で正義を叫ぶミノリティが逆立をオツ始めたつて、大勢に逆行することア不可能だ。惡なら惡でよし、その中を力强く泳いで行けア其れでいいのだ﹂ この反革命精神と、この﹁惡なら惡でよし、その中を力强く泳いで行けア其れでいいのだ﹂という態度は、当時で言えば大杉栄的なアナキストではあるのですが、今様で言えばまさしくリバタリアンという単語が北明を指すに最も近いと思われます。 ﹁殺人結社秘書の秘書﹂﹁三太郎﹂たる語り手は当時の当時のベストセラー阿部次郎の﹁三太郎の日記﹂が由来の大正教養主義者たる﹁三太郎﹂をアメリカで殺人結社の殺人者に仕立てるという意図的な皮肉を込めたようです。 また全くの余談をしますと、その殺人會社に﹁馬鹿になる薬を打たれて﹂で初めて殺されてしまう日本人店員︵組織の隠れ蓑たるドラッグストアの薬剤師︶のエピソードが出てきます。この日本人が殺された日付が何故か奇妙なまでに明確に︵﹁忘れもしない﹂と︶記されていてそれが﹁1923年12月8日﹂です。それから28年後の41年12月8日が真珠湾攻撃なので、ここは全くの偶然でがありますが、なんかゾクリとしました。コンテクスト・メイカーとしての梅原北明
北明数々の逸話はWkipedeiaはあまりたいしたこと書かれていないので、参考するよりググるといろいろ出てくるかと思いますが、變電社としても北明の逸話をつまびらかにしていきたいとこなのですが、ぶっちゃけ逸話が多すぎてどこから手をつけていいのかわかりません! 梅原北明が昭和戦前期の猥本出版のオルガナイザーとして伝説化するのは、自らへの出版物に対してを北明自身が身体張って文脈形成していく逸話量産裝置だからです。罰金・禁固刑を何度食らっても、金鵄勲章︵きんしくんしょう︶なあぬ禁止勲章授与、数十回!なんて発表して徹底して﹁ネタ﹂の弾幕を張ります。 もうそのネタ数が多すぎるので最初期だけを走り書きで書いておきます。 まず北明の名を世間に轟かしたのは先の荒唐無稽な﹁殺人會社﹂なる小説ではありません︵黙殺︶。彼が翻訳を手がけた世界文学史上に燦然と輝く猥褻本ボッカチオ﹁デカメロン﹂がありますが、大正14︵1925︶年に発行する際です。その前に戸川秋骨が翻訳した﹁デカメロン﹂が内務省図書課によって伏せ字削除の﹁検閲﹂で切り刻まれために、それを見越して﹁やれるものならやってみろ﹂とばかりに﹁ボッカチオ没後五百五十年祭記念出版﹂と名をうち、イタリア皇帝皇太后両陛下ならびにムッソリニ首相にこの日本語翻訳本を献上し、盛大なボッカチオ祭を浅草でぶち上げ、イタリア大使を呼んで散々っぱら吉原の芸者と遊ばせ、それに歓喜したイタリア大使からこの桃色接待に応える形でイタリア国家勲章をもらってしまったという逸話︵またその勲章をカフェの女給に簡単にくれてしまうなど︶。 また、昭和2︵1927︶年4月29日、先の入った昭和天皇の誕生日にあたる戦前表現で云う昭和最初の﹁天長節﹂︵昭和元年は前年の12月25日で6日しかなかったので、この年が昭和天皇初の天長節︶ですが、その全国祝賀ムードMAXの日に﹁八百屋お七二百五十年追善供養﹂を打って出た。この恋人逢いたさで江戸に火を放ち火刑に処された放火犯﹁お七﹂の供養を取り仕切った﹁施主﹂が梅原北明です︵当日の全国紙朝刊で報道されたことで各所から上野自治会館に老若男女が集まり恋の炎に燃え焼け死んだ﹁お七﹂にセンチメンタルに涙した言われてます︶。 これは明らかにタメ年の﹁お上﹂をからかう意図でフザケたので、事実その﹃文藝市場﹄誌上にて北明自身が﹁去る四月二十九日は、今度の聖上陛下御誕辰にわたらせらるる最初の天長節で今後毎年繰り返される我らにとっての新たなる祭日であるが、今より二百五十年前の当日は、実に情熱ある女、八百屋お七が鈴ガ森で炙刑に処された日である﹂とまで書いた確信犯です︵しかも二百五十年ではなく二百四十五年であったところサバまで読んでます︶。 また大正14︵1925︶年菊池寛に反旗を翻して始めた今東光﹃文党﹄︵同誌には村山知義も野川隆も参加︶に参加しかつ﹁文党歌﹂なるものまで作詞しして、村山知義に構成派風の目立つ看板を描かせ、銀座目抜き通りを桃太郎の歌の節に﹁天下に生まれた文党だ/値段が安くて面白い/既成文壇討たんとて勇んで街へ出かけたり﹂と大合唱しながら行進させ衆目を集めるなど、いわば街頭での﹁ハプニング﹂とそのアジテートを十八番としており、そして極めつきには先の﹃文藝市場﹄二号この表紙写真です。梅原北明と﹃文藝市場﹄
少し戻してその文藝市場者の成立について。北明は先の﹁デカメロン﹂翻訳で一山当てたことで、新聞記者をやめて、今東光﹁文党﹂と同じく菊池寛﹁文藝春秋﹂横光川端﹁文藝時代﹂などの既成文壇へのカウンター誌を画策します。﹁露西亜大革命史﹂も翻訳したことで交流の深かったプロレタリア系作家作家らを中心に六十余名集結させて﹁文藝市場﹂を大正14︵1925︶年11月創刊し文藝市場社の起こします もっともこれが左翼誌かというとそんなことはありません。実際、北明自身の背骨にイデオロギー的な要素はなく後年村山知義からこんなこと言われます。 彼の死後、彼を可成り左翼的な信念を持っていた人として評価した人があるが、私が見る所で彼にはそんな考えは全くない。プロ作家の中に友人が多い、というが、それは彼がいくらか反骨的で、反抗的な気持ちがあったからで、その後の第二次世界大戦中の彼の態度を見れば、彼が根無し草だったことがわかるだろう —村山知義﹁文藝市場の頃﹂ ﹁その後の第二次世界大戦中の彼の態度﹂とは所謂﹁転向﹂問題もなく無思想で通過できたことを指しているわけですが、この部分は追って第二回ででも触れます。ただ村山知義という人は︵少年期クリスチャンであったピューリタン的性向のせいなのか︶周囲に対して少し辛辣に書きすぎているきらい︵村山﹁演劇的自叙伝﹂読むと様々な人への批評︵悪口?︶が多い︶があり、ここでも北明に対して一貫して冷淡でありますが、北明はむしろ人に好かれたエピソードが多数あります。おそらく北明の持つ﹁反骨﹂とだけと言い切れぬものが、同人の尾高三郎から﹁焼け糞出版﹂と言われるような、後も先も顧みない全くの無意味な悪戯に命をかけるような﹁悪童性﹂が人を惹きつけたようです︵そしてそれは﹁マヴォ﹂のドイツ仕込みの前衛の﹁怪童﹂からコミュニズムへと放物線を描いた村山知義とは相容れぬ何かであり、彼らの関係はこの文藝市場のみで終了しています︶。 その悪戯の針が振り切れすぎて、悪ノリにまで到るれべるのフザケかたをして、今に生きていれば高炎上リスクを持っている北明ですが、﹃文藝市場﹄創刊号も﹁不真面目なゴシップ的要素﹂満載で﹃文壇全部嘘新聞﹄なる﹁虚構新聞﹂記事が初号に見開一頁を割いて、花袋と岡本一平と辻潤が春画売買容疑で取調べられている横で、菊池寛邸全焼して﹁文壇きっての金貸し﹂上司小剣が目黒で惨殺されるなど、当時から底抜けにフザケきって既成権威に喧嘩売り放題で、 当時の参加していたプロ陣営からも﹁創刊号がひどすぎる﹂と﹁あんなのものに有頂天になっていそうにな点も感じられるから、一言いましめて置く﹂と山田清三郎からも叱られる始末です。 もっとも単におフザケ雑誌かというとそれだけでは終わらないことがわかる﹁宣言文﹂が巻頭に添えられています。こちら誰が起草したかは明確ではないですが、北明起草だろうと勝手に確定してお待たせしました。本日のbib/i公開まず一本目です。﹃文藝市場宣言﹄大正14年︵1925︶年11月
﹃文藝市場宣言﹄ フォントサイズが途中大きいのも創刊号の体裁︵創刊号以外はフォントサイズ統一されますが︶に則りましたが﹁不真面目なゴシップ的要素﹂満載の雑誌の宣言が案外にシビアさに驚きますし、直裁で正論です。 文藝市場はこの愚かな迷信を破つて藝術を商品として徹底させるために生れた。これは藝術に對する冒瀆でない。資本主義社會に於ては商品でないものは一切存在する意味がないのだ。 北明のその大正末期という時代の中では驚嘆するレベルの﹁市場主義﹂宣言は、さきの﹁殺人會社﹂からテキ屋のバナナのように﹁生原稿を叩き売り﹂してしまう姿勢まである、一貫した商才です。ただ﹁宵越しの銭が持たねえ﹂の散財癖も含めて儲けには恬淡であり、何と云いますか、むしろ犯罪すれすれのハイリスク・ハイリータンの賭博の興奮を追い求めいるように、出した出版物の廻りで北明は徹底してレイズ︵掛け金をつり上げ︶していきます。それは例えば﹃文藝市場﹄の後継誌﹃グロテスク﹄三號目が発禁を食らえば、その処分を逆手に取って黒枠の﹃グロテスク﹄死亡広告をすぐに打って出て、官憲をからかいます。 グロテスク新年號 死亡御通知 愚息﹃グロテスク﹄新年号儀サンザン母親に生みの苦しみを味わせ、漸く出産致せし甲斐もなく、急性発禁病の為め、昭和三年十二月二十八日を以て﹁長兄グロテスク十二月号﹂の後を追い永眠仕り候、夭折する子は美しい、とは子を失った親の愚息とは存じ候へども、お察し下され度候。 一時期は帝国ホテルの数間借り切ってタイプライター雇って後述筆記したりしたり、官憲が踏み込んでくることがうるさくて適わないからと帝都を走り巡らす車の中で執筆を行つたなど逸話も出回っているくらいですが、その結果、北明の息子梅原正紀がこんなことを書いています。 ︵数々の艶本を出版することで︶金もはいったが、それを上回るくらい北明は乱費した。したがって艶本業者としては財を成さなかった。 発禁や投獄は覚悟のうえで採算を無視して出版するので北明物に読者の支持は集まり、この次北明は何を出版するのかと楽しみにしている読者が多かった。 —梅原正紀﹁猥本一代・梅原北明――発禁処分数十回、猥本に賭けた男の執念﹂﹃宝石﹄1976 逮捕後の取り調べで警視総監が直々にやってきてこっそり﹁次の企画は何か﹂と聞いた北明ファンだったという嘘か真かの逸話もあり、一時期あまりにも発禁本を繰り返すので警察官が北明の事務所に常駐するなどという異常な措置がなされた際も、数ヶ月後にはその警察官が文藝市場社の刊行本の発送の手伝いに汗流していたりとか。これは先の北明の﹁悪童﹂ならではの魅力なのか。 余談ですが、以前職場での私の同僚でとにかく﹁猥談﹂ばかり喋る男がいて、度が過ぎているために何でそんなにその手の話がそんなに好きなのかを一度聞いたところ、彼は所謂﹁転勤族﹂で北は仙台から南は沖縄まで全国各地に引っ越しを繰り返し転校続きだったのだそうですが、彼がその経験で学んだものとして﹁エロは何処に行っても通じる﹂という半ば極論で処世訓があり、現にそれで転校生でもいじめられることもなく過ごしたという話を思い出します。 何はともあれ、そういう梅原北明の発行する周辺の﹁逸話﹂が﹁弾幕﹂として張り巡らされるこの戦前期内務省図書課相手にしたバブリッシング工程そのものを含めてイベント化し。ネタ=祝祭コンテンツに転化する手際は北明の他に類を見ません。あの戦前期エログロナンセンスの暢気さから情勢急転する時代状況の強権圧力の中だからこそ、その文脈に﹁検閲﹂という官憲処理を加えてネタコンテンツ化してくる北明に対して当局は手を焼き、懲りない﹁出版狂人﹂に映り当局には﹁正気の狂人﹂と言わしめたわけです。 そしてここで対官憲して北明ということだけでは、言い尽くせない部分として、つまり先の警視総監の話ではないですが、官憲側も彼の読者であり彼の動向を固唾をのんで見守る観客であったという点です。彼が戦時下軍部要請の仕事をいくつかこなしてますが、彼の地下出版のサブスクリプションモデルの会員には、会社員はもとより、大学教授、高級軍人、検事など、いわゆる戦時下のエスタブリッシュメント側が大勢含まれていて、その﹁北明ファン﹂=つまり公人ではなく私人のパイプで彼が圧政の戦時下も命脈を繋いだという事実があります。 これはまたもう少し次回も北明のビジネスモデルを掘り下げて考えてたいと思っており、その際にもう少し細かく書きたいと思いますが、地下出版で行き詰まった彼はなんと関西で女子校の英語教師をしたり靖国神社の社史編纂をしたり、戦中欧米の最新科学雑誌を軍部要請で海賊版翻訳をしたり、軍ルートで仕入れたアルコールを東大農学部農芸化学を専攻している学者を巻き込んでウィスキーを密造したりと、したたかに生き延びています。まさに﹁惡なら惡でよし、その中を力强く泳いで行けア其れでいいのだ﹂という態度です。 ここでさらに珍しい彼の初期小説作品をいくつか。その﹁市場主義﹂性﹃文藝市場﹄に発表した小品をbib/i公開2本目参ります。梅原北明﹃火の用心﹄大正15︵1926︶年4月
﹃火の用心﹄ これは短いものですのでざっと読んで欲しいわけですが、この短篇をループで繋げてみれば、ここに梅原北明の人生の縮図そのものです。ブタ箱から出て路頭に迷いワンチャンスから博打智恵を絞って一瞬でのし上がる、そしてもしかするとまたブタ箱かもしれない。最後の一文この詐欺には無自覚である彼の感じる策略家の勝利への陶酔感はもうビジネス的成功としての歓喜なわですが、ここは﹁殺人會社﹂と彼の哲学は変わってません。 彼は現代の一特色を形づくるネオ・サタニストを以て自任してゐた。 もう一つ北明という人を象徴するシーンで彼を捕まえた巡査の家に詐欺に這入って再待った歳の述懐が、 此れは失策つた!惡い所へ踏み込んだ、と直覺したが、その刹那に毎時の糞度胸が出て、危く平勢を裝ふことが出來た。 まさにこの完全強者を目の前にした刹那での﹁糞度胸﹂が﹁悪童﹂の﹁悪童﹂たる所以だと思われ、その彼一流の﹁糞度胸﹂が地下出版の帝王であり発禁本の道化であり神出鬼没の悪党であり変化自在の義賊としてのある種の梅原北明神話を形成する原動力になったに違いなく、読者に託されていた。奴なら何かしでかしてくれると。梅原北明﹃ぺてん商法﹄昭和21年︵1946︶年12月5日
﹃ぺてん商法﹄ こちらは昭和21︵1946︶年発見されたので遺作となっておりますが、正確には昭和10︵1935︶年頃の旧作発見というものです。こちらも先の﹁火の用心﹂に近い﹁テキ屋﹂的な詐欺商法への知恵比べ的な関心と深い共感を示すような作品となっていますが、追記として、﹁I・A生﹂なる人物が梅原の訃報に接しての動揺が触れられておりますので、そちらも同時に掲載しました。 梅原が去る5月に突然死んだと花房四郎君から通知を受取つたときには些か愕然とした。夢のやうな氣がした。それまでよきにつけ、惡しきにつけいろ〳〵と交際を持ち續けて來た僕だつた。あの男の事であるから、もう慾は云はずにせめて四五年は生かして置きたかつた。何かあッと云ふような大きな仕事をしたに違ひない。梅原北明なるエンターテナーとしての﹁公の敵﹂
梅原北明が﹁梅原北明﹂になる以前の貴重な証言として戦後日本野球連盟会長も務めた鈴木竜二が伝える逸話があります。本名梅原貞康時代、早稲田大学英文科中退後﹁靑年大学﹂なる雑誌社や新聞社の外務省詰記者等を転々としながら、5月1日のメーデーに参加した梅原貞康はこう活写さています。 大行進軍の中、緑色のロイド眼鏡に怪しげなるタキシード男、労働歌の高唄から警官と小競合いを初めて、遂に検束された。だが、新聞記者という六号文字の肩書きが、どんだ拾い物をして直ぐ帰された。菜葉服の多いメーデーのにタキシードを着た男の検束が、まず珍なる景物詩であったが、この男が、彼、梅原北明! —﹃グロテスク﹄1930︵昭和5︶年1月 特集﹁人を喰った男﹂ なんとも北明の面目躍如たるアジテーター振りが目に浮かびます。勞働者の作業服︵菜葉服︶の中ただ一人タキシード姿で警官と罵り合いをしている北明!。ここでまた社主恒例の現代の戦後洋楽POPシーンへ勝手に翻訳してしまうと、HIPIHOPシーンで懷かしきかのPublic Enemy のフレイヴァー・フレイヴ︵Flavor flav︶の﹁煽り屋﹂っぷりを想起してしまい以下を最後に共有しておきます。 言わずもがなのパブリック・エナミーに関しては以下の記事などご参考ください。 社会派ヒップホップの先駆者、パブリック・エナミーの衝撃 こわもてライムまくし立てるメインラッパーの”チャックD”の横で変な踊りして合いの手いれているグラサン時計野郎がフレイヴァー・フレイヴです。 またこの﹁Public Enemy = 公の敵﹂というのは梅原北明を言い得て妙ではないかと我ながら思うところですが、北明は間違いなく1920年代から30年代にかけて﹁公の敵﹂であり、またそれを演じていたエンターテイナーでした。上記﹁火の用心﹂﹁ぺてん商法﹂ともに演じ手と観客がいる構図を維持しながらも、このYoutube”Fight The Power”PVのようなワアっと沸く群集の元、パフォーマー︵パブリッシャー︶=トラック︵コンテンツ︶=オーディエンス︵読者︶の一体感は戦前の梅原北明周辺には確かにあったに違いないのです。 Our freedom of speech is freedom or death We got to fight the powers that be Lemme hear you say Fight the powerつづきがトルタル6号で!
さて、久しぶりなのに相変わらずの長文でかつ、結果的にエピソードの羅列に終始してしまいましたが、つまりそういう﹁逸話﹂弾幕の多い梅原北明という出版パフォーマーに関してまだまだ語り切れていない部分が深くあります。しかし本件、昨今の電子セルフパブリッシング界隈にも等しく何かのヒントを与えるネタかと認識しておりますので、よって今少し深掘りを加えていこうと思っております。 今回は先に予告しました﹁20世紀跨ぎ生まれ﹁X﹂とその世代試論﹂のβ版として公開してしまいますが、追って﹁X﹂と同時代人として生きた人々の様々な﹁放物線﹂のバリアントを纏めてまいろうと思っておりますので斯うご期待! ︻参考文献︼ ●斉藤昌三﹁三十六人の好色家―性研究家列伝﹂創芸社, 1956 ●城市朗﹁発禁本︿続(﹁ヰタ・セクスアリス﹂から﹁ファニー・ヒル﹂まで)﹀ ﹂桃源選書, 1965 ●斎藤夜居﹁大正昭和艶本資料の探究﹂芳賀書店, 1969 ●玉川信明﹁大正アウトロー奇譚―わが夢はリバータリアン (玉川信明セレクション 日本アウトロー列傳)﹂社会評論社, 2006 ●村山知義﹁文藝市場の頃﹂﹃文藝市場復刻別冊﹄日本近代文学館,2004 ●金子洋文﹁梅原北明と﹁文藝市場﹂﹂﹃文藝市場復刻別冊﹄日本近代文学館,2004 ●梅原正紀﹁父・梅原北明﹂﹃文藝市場復刻別冊﹄日本近代文学館,2004 ●瀬沼茂樹﹁解説﹂﹃文藝市場復刻別冊﹄日本近代文学館,2004 ︻参考データ‥国立国会図書館デジタルコレクション館内限定閲覧資料︼- 梅原正紀「梅原北明」『ドキュメント日本人 第6巻 アウトロウ』 学芸書林, 1968
- 梅原正紀「猥本一代・梅原北明――発禁処分数十回、猥本に賭けた男の執念」『宝石』光文社, 1976-01
- 梅原正紀「父・梅原北明–エロ・グロ時代に活躍した稀代の艶本出版狂」『文藝春秋』文藝春秋,1973-12
- 谷沢永一「日本文学のなかの一九三〇年代 I意匠と風俗 エロ・グロ・ナンセンス “カフエ時代”」『国文学』學燈社, 1975-07
- 會津信吾「評論 梅原北明とエログロ雑誌」『幻想文学』アトリエOCTA, 1989-09
- 峯岸義一「梅原北明とその仲間(奇人・怪人)」『小説新潮』新潮社, 1970-04
- 峯岸義一「風流紅煙草」『パパの好きな赤帽子:粋人酔筆峰岸義一集』住吉書店, 1956