◆日本とアメリカの寄付の違い・文化の違い
Wikipediaといえばインターネットにおける無料百科事典として誰もが知っていますが、最近そのウィキペディアを運営する財団が資金難になったことが話題となりました。。ウィキはアクセス数が世界で5番目を誇る人気サイトなのでそのサーバー代は当然のことながら巨額の費用となります。そしてその費用全てをユーザーからの善意による募金によって賄っています。
そんなウィキペディアですが日本は他国に比べて募金額が少ないのだそうです。前回アメリカ人と寄付をテーマにしてアメリカにおける寄付の文化について述べてみましたが、今回は日本の寄付の実態がどうなっているのかを見てみたいと思います。
2015年の寄付白書によるとアメリカの個人寄付の総額が27兆円に対して日本の個人寄付はわずか7409億円となっております。これはアメリカの27兆円のわずか2.7%の金額になります。
︵日米英の個人寄付総額 寄付白書2015︶ いくらなんでも少ないです。イギリスの1兆8000億円と比較しても少ない数値です。このデータを見ても日本には寄付という習慣が社会的に根付いてないようです。もちろんアメリカのように寄付をすることで節税効果が見込めることや、キリスト教における文化的な側面がないことも事実です。しかしなぜ日本には寄付の文化がないのでしょうか。
︵物乞いをするアメリカのホームレス︶ なぜ恵んで貰えないかというとそれは日本という社会が非常に平等で単一な社会であるからです。身体障害者で動けないなら別ですが、日本人の中で﹁働けるのに働かないホームレスの人達にはお金を上げる必要がない﹂と思っているのでしょう。貧困は﹁個人の努力不足や怠惰なものである﹂と考えているからです。 一方の欧米では貧困が社会の階層によって生み出される構造的なものでもあります。貧困層の人々が決して怠け者であるからというわけではないのです。 アメリカを例に取りましょう。アメリカでは19世紀まで黒人は奴隷制の下で生活していました。そして、奴隷制が廃止され平等になった今日と言えども人種的な壁があります。 確かに公的な差別は無くなりましたが、目に見えない形での人種差別により南部などでは条件の良い仕事に就労することができません。それどころか就労の機会の他に教育面においても平等なチャンスを与えられておりません。 そういった本人の努力に関わらない社会的な不平等による構造的な貧困が発生します。どんなに一生懸命働いてもそこから抜け出すことができないのです。 日本でもこういった構造的な貧困の問題が発生しているのであればもう少し寄付をする人が増えることでしょう。働かざる者食うべからずということは日本の場合、ひとえに﹁貧しさの原因は社会でなく個人にありますよ﹂ということを如実に表した格言であると思います。 前述のオティエ由美子さんも日本社会について著書内で同じ様な分析をしています。 日本社会は基本的にみんな﹁働かざる者喰うべからず﹂と思っているし﹁人に頼るな、自分でなせば叶う﹂的な自助努力が重視される社会です。自分に厳しく、他人にもまた厳しいのが日本の社会と言えるかもしれません。 つまり日本人が寄付をしないのは、ホームレスが自分達が所属しているのと変わらない同じ世界・同じ階層・同じ社会に属していると考えているからです。決して彼らが社会の構造的な問題による不平等によって貧困になったと考えていないからです。
(小林栄先生 どちらかと言うとこの人の方がお札にふさわしい) 一般にこういった援助を受ける場合、その子供は自分の将来の為だけでなく村の代表として村の威信を懸けて勉学に励まなければなりませんでした。ですから村の希望の星として当人は相当なプレッシャーを常に背負っていました。 日本社会は非常に狭い世界なために、どんな日本人も個人で必ずと断言できるほど何かしらの組織に所属しています。その組織とは一番小さい単位の家族から親類、そして昔であれば自分が住んでる集落や村。また、近年で言えば会社などの生活や運命を共にする共同体集団です。 そしてその共同体の中で他人に迷惑をかけない、身勝手な振る舞いを慎む、責任ある行動をとる、といったことが求められます。これはその個人が所属している組織への掟です。個人の権利の尊重より組織の秩序を乱さないことが優先されます。私より公が優先される社会です。組織に迷惑をかけてはなりません。 組織への忠誠が求められ個人の権利といった人権が制限される不都合がありますが、その代わりに個人に対して何かしらの問題が発生した場合、組織は責任を持ってその個人の面倒をみる必要があります。 その為本来では私的であったはずの組織は所属してるメンバー達にとっては公的な意味合いを持つ組織へと変貌するのです。そして組織に対して最終的に血縁関係のような家族的な繋がりを持つに至ります。
︵日米英の個人寄付総額 寄付白書2015︶ いくらなんでも少ないです。イギリスの1兆8000億円と比較しても少ない数値です。このデータを見ても日本には寄付という習慣が社会的に根付いてないようです。もちろんアメリカのように寄付をすることで節税効果が見込めることや、キリスト教における文化的な側面がないことも事実です。しかしなぜ日本には寄付の文化がないのでしょうか。
◆日本人が寄付をしない理由
海外に行くとよく街中で物乞いを見かけます。﹁お恵みを・・・﹂と言って人通りの多い歩道に座って小銭などを恵んでもらう乞食や浮浪者ですね。日本にも同じようにホームレスや浮浪者といった人達はいます。 一見すると世界中どこにでもいるホームレスですが、オティエ由美子さんはその著書の中でこの日本と海外のホームレスの違いについて以下のように驚くべき違いを上げています。 私たち日本人は何の疑問にも思わないけれれど、米英仏人が知ったらびっくりするにちがいないこと。それは﹁日本のホームレスが物乞いをしない﹂という事実です。彼らはしっかりと労働して稼いでいる。一方、米英仏のホームレスたちは物乞いを生業としています。 日本のホームレスが物乞いをしない理由は恐らく物乞いしても貰えないからです。日本には昔からこういった格言があります。 ﹁働かざる者食うべからず﹂ 日本のホームレスは街中を行き交う人々からお金を貰えると思っていないはずです。実際にホームレスですら落ちてる空き缶を集めて廃品回収業者に渡して幾らかの現金収入を得ています。つまりホームレスも働いているのです︵笑︶︵物乞いをするアメリカのホームレス︶ なぜ恵んで貰えないかというとそれは日本という社会が非常に平等で単一な社会であるからです。身体障害者で動けないなら別ですが、日本人の中で﹁働けるのに働かないホームレスの人達にはお金を上げる必要がない﹂と思っているのでしょう。貧困は﹁個人の努力不足や怠惰なものである﹂と考えているからです。 一方の欧米では貧困が社会の階層によって生み出される構造的なものでもあります。貧困層の人々が決して怠け者であるからというわけではないのです。 アメリカを例に取りましょう。アメリカでは19世紀まで黒人は奴隷制の下で生活していました。そして、奴隷制が廃止され平等になった今日と言えども人種的な壁があります。 確かに公的な差別は無くなりましたが、目に見えない形での人種差別により南部などでは条件の良い仕事に就労することができません。それどころか就労の機会の他に教育面においても平等なチャンスを与えられておりません。 そういった本人の努力に関わらない社会的な不平等による構造的な貧困が発生します。どんなに一生懸命働いてもそこから抜け出すことができないのです。 日本でもこういった構造的な貧困の問題が発生しているのであればもう少し寄付をする人が増えることでしょう。働かざる者食うべからずということは日本の場合、ひとえに﹁貧しさの原因は社会でなく個人にありますよ﹂ということを如実に表した格言であると思います。 前述のオティエ由美子さんも日本社会について著書内で同じ様な分析をしています。 日本社会は基本的にみんな﹁働かざる者喰うべからず﹂と思っているし﹁人に頼るな、自分でなせば叶う﹂的な自助努力が重視される社会です。自分に厳しく、他人にもまた厳しいのが日本の社会と言えるかもしれません。 つまり日本人が寄付をしないのは、ホームレスが自分達が所属しているのと変わらない同じ世界・同じ階層・同じ社会に属していると考えているからです。決して彼らが社会の構造的な問題による不平等によって貧困になったと考えていないからです。
◆日本では誰が社会的弱者を救済するのか
それでは日本の場合一体誰が社会的な弱者を救済するのでしょうか。日本では社会的弱者に対しての救済方法が﹁個人﹂ではなく集団や組織、そして公的な機関などの﹁共同体﹂が行っているのではないかと思います。 例えば戦前の明治や大正時代、村や町で飛び抜けて優秀な農家の子が貧しくて進学できない場合、名主や庄屋そして村長などの地方の名士が両親に代わり進学費用を捻出しました。彼らが村で神童と呼ばれた優秀な子供を中学校や高校に通学するために必要な費用を負担するなど地方の名士が現在における奨学金の役割を果たしていました。 有名な例としては1000円札の肖像にもなっている野口英世です。彼は貧農の生まれにも関わらず小林先生に学費を工面してもらい高等小学校に通うことができました。(小林栄先生 どちらかと言うとこの人の方がお札にふさわしい) 一般にこういった援助を受ける場合、その子供は自分の将来の為だけでなく村の代表として村の威信を懸けて勉学に励まなければなりませんでした。ですから村の希望の星として当人は相当なプレッシャーを常に背負っていました。 日本社会は非常に狭い世界なために、どんな日本人も個人で必ずと断言できるほど何かしらの組織に所属しています。その組織とは一番小さい単位の家族から親類、そして昔であれば自分が住んでる集落や村。また、近年で言えば会社などの生活や運命を共にする共同体集団です。 そしてその共同体の中で他人に迷惑をかけない、身勝手な振る舞いを慎む、責任ある行動をとる、といったことが求められます。これはその個人が所属している組織への掟です。個人の権利の尊重より組織の秩序を乱さないことが優先されます。私より公が優先される社会です。組織に迷惑をかけてはなりません。 組織への忠誠が求められ個人の権利といった人権が制限される不都合がありますが、その代わりに個人に対して何かしらの問題が発生した場合、組織は責任を持ってその個人の面倒をみる必要があります。 その為本来では私的であったはずの組織は所属してるメンバー達にとっては公的な意味合いを持つ組織へと変貌するのです。そして組織に対して最終的に血縁関係のような家族的な繋がりを持つに至ります。