「ウスマーン・イブン・アッファーン」を編集中
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ウスマーンは政策を決定する場合には、古参の信徒や有識者からなる委員の合議にかけて意見を聞いていた<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、72-73頁</ref>。アラブ人は短期間で広大な支配地を獲得したものの、統一された支配体制は未だに確立されていなかった<ref name="horupu"/>。行政の円滑化と中央集権化を推進するため、ウスマーンは自身の出身であるウマイヤ家の人間を中央・地方の要職に抜擢し<ref name="horupu"/>、彼がとった縁故主義は批判に晒された<ref name="hit"/><ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、99-101頁</ref>。ウスマーンによるウマイヤ家出身者の起用に対し、ムハンマドの寡婦[[アーイシャ・ビント・アブー・バクル|アーイシャ]]は、ムハンマドの形見の衣服がそのまま残っているほど時間が経っていないのに、ウスマーンはスンナを忘れたのかと批判した<ref>小杉﹃イスラーム文明と国家の形成﹄、187頁</ref>。アリーは、トラカーウ︵[[630年]]のムハンマドのマッカ征服に際してイスラームに改宗した人間︶であるウマイヤ家出身の総督が統治者にふさわしくないと考えていた<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、107頁</ref>。ウマイヤ家出身の総督の解任を望む多くの教友に対し、ウスマーンは総督たちの行状を確認するために古参の教友を各地に派遣し、解任に相当する事由がない報告を受け取った<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、105-106頁</ref>。
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ウスマーンは政策を決定する場合には、古参の信徒や有識者からなる委員の合議にかけて意見を聞いていた<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、72-73頁</ref>。アラブ人は短期間で広大な支配地を獲得したものの、統一された支配体制は未だに確立されていなかった<ref name="horupu"/>。行政の円滑化と中央集権化を推進するため、ウスマーンは自身の出身であるウマイヤ家の人間を中央・地方の要職に抜擢し<ref name="horupu"/>、彼がとった縁故主義は批判に晒された<ref name="hit"/><ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、99-101頁</ref>。ウスマーンによるウマイヤ家出身者の起用に対し、ムハンマドの寡婦[[アーイシャ・ビント・アブー・バクル|アーイシャ]]は、ムハンマドの形見の衣服がそのまま残っているほど時間が経っていないのに、ウスマーンはスンナを忘れたのかと批判した<ref>小杉﹃イスラーム文明と国家の形成﹄、187頁</ref>。アリーは、トラカーウ︵[[630年]]のムハンマドのマッカ征服に際してイスラームに改宗した人間︶であるウマイヤ家出身の総督が統治者にふさわしくないと考えていた<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、107頁</ref>。ウマイヤ家出身の総督の解任を望む多くの教友に対し、ウスマーンは総督たちの行状を確認するために古参の教友を各地に派遣し、解任に相当する事由がない報告を受け取った<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、105-106頁</ref>。
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650年の征服戦争の終結は、軍事行動に従事した兵士から戦利品による収入を絶ち、兵士たちは政府から支給されるわずかな俸給で生活していかなければならなくなった<ref name="horupu"/>。兵士たちはマディーナで富と権力を独占するイスラーム教徒の上層部に不満を抱き、彼らの第一人者であるウスマーンに憎しみが集中した<ref name="horupu"/>。 |
650年の征服戦争の終結は、軍事行動に従事した兵士から戦利品による収入を絶ち、兵士たちは政府から支給されるわずかな俸給で生活していかなければならなくなった<ref name="horupu"/>。兵士たちはマディーナで富と権力を独占するイスラーム教徒の上層部に不満を抱き、彼らの第一人者であるウスマーンに憎しみが集中した<ref name="horupu"/>。ビザンツ帝国との戦争に従軍することが予定されていたシリアのアラブ人は税制と居住地の面で優遇を受けていたため、彼らの中にはウスマーンとシリア総督を務めていたムアーウィアを支持する者が多かった<ref>余部﹃イスラーム全史﹄、58頁</ref>。しかし、[[クーファ]]では部族間・部族集団内での貧富の差が大きく、征服活動が終息した後に町では激しい内紛が起きた<ref name="amarube59">余部﹃イスラーム全史﹄、59頁</ref>。ウスマーンは征服軍の兵数が不足するエジプトへの移住を推進し、新旧の兵士の間に激しい衝突が起きた<ref name="amarube59"/>。また、征服地の住民の中には、マディーナから派遣されるクライシュ族にのみ統治が委ねられていることに不満を持つ者もいた<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、96頁</ref>。
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ウスマーン時代に実施されたサワーフィー(アラブ人がイラクで獲得した土地のうち、皇帝、神殿、貴族の所有地を指して呼ばれた地域)の収入の変更について、[[歴戦の民]]([[シャイバーン族]]やマフズーム家の[[ハーリド・イブン・アル=ワリード]]配下の兵士など、アラブの征服事業に初期から参加していた兵士)から反対の声が上がった<ref>余部『イスラーム全史』、51,58-60頁</ref>。従来はサワーフィーから上がる収益の80%が戦利品として土地の所有者の手に渡り、残りの20%がカリフの取り分とされていたが、戦利品の減少によって収益の全てがカリフの取り分とされた<ref name="amarube60">余部『イスラーム全史』、60頁</ref>。このため、655年にイラク総督は捕らえられ、代わりに現地の事情に詳しいアブー・ムーサー・アル=アシュアリーが総督に擁立された<ref name="amarube60"/>。 |
ウスマーン時代に実施されたサワーフィー(アラブ人がイラクで獲得した土地のうち、皇帝、神殿、貴族の所有地を指して呼ばれた地域)の収入の変更について、[[歴戦の民]]([[シャイバーン族]]やマフズーム家の[[ハーリド・イブン・アル=ワリード]]配下の兵士など、アラブの征服事業に初期から参加していた兵士)から反対の声が上がった<ref>余部『イスラーム全史』、51,58-60頁</ref>。従来はサワーフィーから上がる収益の80%が戦利品として土地の所有者の手に渡り、残りの20%がカリフの取り分とされていたが、戦利品の減少によって収益の全てがカリフの取り分とされた<ref name="amarube60">余部『イスラーム全史』、60頁</ref>。このため、655年にイラク総督は捕らえられ、代わりに現地の事情に詳しいアブー・ムーサー・アル=アシュアリーが総督に擁立された<ref name="amarube60"/>。 |
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ウスマーンの最大の事業として、各地に様々な版が存在していた[[クルアーン]](コーラン)の統一が挙げられる<ref name="ii-jiten"/><ref>前嶋信次『イスラム世界』、117頁</ref>。ムハンマドの存命中からクルアーンを書物の形にまとめる事業が続けられていたが、ウスマーンの時代には少なくとも4種類のクルアーンのテキストが存在し、文章と読み方は互いに異なっていた<ref name="horupu"/>。新たに改宗した非アラブ人の間では、それぞれが読むクルアーンの文が異なる問題が顕著になっていた<ref name="maejima116"/><ref>森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、91-92頁</ref>。ウスマーンはザイド・イブン・サービトを中心とする委員にクルアーンの「正典」を編集させ、他の版をすべて破棄させた。後世に作成されたクルアーンは、すべてウスマーン版(rasm Uthmānī)のクルアーンに合致するものとされている<ref name="ii-jiten"/>。ウスマーンの編纂事業より前に成立したクルアーンの中には廃棄を逃れたものもあり、イブン・アビー・ダーウードらによってクルアーン解釈学の資料として用いられた<ref name="amarube137">余部『イスラーム全史』、137頁</ref>。当時の人間からは不信仰にあたる行いとして激しい非難を受け<ref name="horupu"/>、ウスマーンを嫌った後世の人間はアブー・バクルがクルアーンを統一した伝承を作り上げた<ref name="amarube137"/>。だが、思想を異にする多くの分派、神学者、法学者が用いるクルアーンの内容が統一されたことで、[[ウンマ (イスラム)|ウンマ]](共同体)やイスラーム法の一体性が確保された<ref name="kosugi185">小杉『イスラーム文明と国家の形成』、185頁</ref>。さらに、政治・信条を巡る議論の正典への波及を防ぎ、共通の議論の場が提供されたことで、[[イスラーム文明]]に安定と発展がもたらされた<ref name="kosugi185"/>。 |
ウスマーンの最大の事業として、各地に様々な版が存在していた[[クルアーン]](コーラン)の統一が挙げられる<ref name="ii-jiten"/><ref>前嶋信次『イスラム世界』、117頁</ref>。ムハンマドの存命中からクルアーンを書物の形にまとめる事業が続けられていたが、ウスマーンの時代には少なくとも4種類のクルアーンのテキストが存在し、文章と読み方は互いに異なっていた<ref name="horupu"/>。新たに改宗した非アラブ人の間では、それぞれが読むクルアーンの文が異なる問題が顕著になっていた<ref name="maejima116"/><ref>森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、91-92頁</ref>。ウスマーンはザイド・イブン・サービトを中心とする委員にクルアーンの「正典」を編集させ、他の版をすべて破棄させた。後世に作成されたクルアーンは、すべてウスマーン版(rasm Uthmānī)のクルアーンに合致するものとされている<ref name="ii-jiten"/>。ウスマーンの編纂事業より前に成立したクルアーンの中には廃棄を逃れたものもあり、イブン・アビー・ダーウードらによってクルアーン解釈学の資料として用いられた<ref name="amarube137">余部『イスラーム全史』、137頁</ref>。当時の人間からは不信仰にあたる行いとして激しい非難を受け<ref name="horupu"/>、ウスマーンを嫌った後世の人間はアブー・バクルがクルアーンを統一した伝承を作り上げた<ref name="amarube137"/>。だが、思想を異にする多くの分派、神学者、法学者が用いるクルアーンの内容が統一されたことで、[[ウンマ (イスラム)|ウンマ]](共同体)やイスラーム法の一体性が確保された<ref name="kosugi185">小杉『イスラーム文明と国家の形成』、185頁</ref>。さらに、政治・信条を巡る議論の正典への波及を防ぎ、共通の議論の場が提供されたことで、[[イスラーム文明]]に安定と発展がもたらされた<ref name="kosugi185"/>。 |
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また、ウスマーンの時代にはイスラーム国家の海軍が整備された<ref name="horupu"/>。ウマルの時代に海軍の増強は行われなかったが、度重なる |
また、ウスマーンの時代にはイスラーム国家の海軍が整備された<ref name="horupu"/>。ウマルの時代に海軍の増強は行われなかったが、度重なるビザンツ軍のエジプトへの攻撃に対して、シリア総督ムアーウィヤから艦隊の創設が提案された<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、84,88頁</ref>。協議を経て、シリア人とエジプト人からなるアラブ発の艦隊が編成された<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、88頁</ref>。[[654年]]/55年<ref name="louis100">ルイス﹃イスラーム世界の二千年﹄、100頁</ref>にエジプト、シリアから出港した艦隊は[[リュキア沖]]の[[マストの戦い]]︵サーワーリーの戦い︶でビザンツ艦隊に勝利を収め、東地中海の制海権を掌握する<ref name="horupu"/>。
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== 人物像 == |
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