エンタシス
概要
﹁エンタシス﹂の語はローマの建築史家ウィトルウィウスが用いたのが最初であり、﹁引っ張る﹂﹁きつく伸ばす﹂などの意味を持つギリシャ語﹁εντείνω (enteino)﹂に由来する。 エンタシスを施した柱を下から見上げると、真っ直ぐに安定して見える錯覚を生むため、巨大建築物の柱に用いることが多い。
古代ギリシャの神殿建築で用いられたものが有名だが、東アジアの伝統建築でも似たようなテクニックが用いられており、日本語で﹁胴張り﹂という。中国北宋時代の建築書﹃営造法式﹄にも記載されており、上に向かって細くなるものや、柱の下から1/3の所が最も太くなるものなどがある。もちろん現代の構法の建築物でも用いられているテクニックである。
胴張り
東アジアの歴史的建築にみられる柱のふくらみを、﹁胴張り﹂または﹁徳利柱﹂と呼ぶ。柱の下から1/3の所が最も太くなるタイプのエンタシスである。
日本では、奈良時代前期の法隆寺金堂には見事な胴張りがあるが、時代が下るにつれ、海龍王寺五重小塔では胴張りが少なくなり、唐招提寺金堂ではごくわずかになり、平安時代前期で消滅したらしい[1]。
鎌倉時代には中国から大仏様と禅宗様が日本に伝えられ、柱の上方を細くするエンタシス風の曲線を持つ柱が流行した。これは﹁エンタシス﹂や﹁胴張り﹂とは呼ばず﹁粽︵ちまき︶﹂と言う。
韓国では胴張りの柱を用いた仏堂が現代に至るまで建築されている。歴史的建造物としては、高麗時代の浮石寺無量寿殿︵国宝第18号︶や江陵客舎門︵韓国国宝第51号︶などがある。ベトナムでも李朝・陳朝時代からあったようだが、ベトナムは高温多湿で木造建築が腐りやすいということもあり、15世紀以前の木造建造物がほとんど残っていないので、よく解っていない。
﹃営造法式﹄では柱の形式がまとめられており、例えば中国の世界遺産・佛光寺の大殿で使われている、上方1/3がすぼまったタイプの柱が﹁梭柱﹂と言う名前である。これも英語の﹁entasis﹂に含む場合があるが、日本語で普通﹁エンタシス﹂と言うと、法隆寺にある形式の柱を指す。
「法隆寺の胴張りの起源は古代ギリシャのエンタシス」説
1893年︵日本の明治時代︶、帝国大学︵現在の東大︶院生の伊東忠太が、法隆寺の胴張りの起源が古代ギリシャにあるとする論文︵学位論文︶﹁法隆寺建築論﹂を発表した。この説は和辻哲郎が昭和時代に発表したエッセイ﹃古寺巡礼﹄によって特に有名となった。
ただし、建築史家の藤森照信によると、この説は建築史的には﹁ウソ﹂とのこと[2]。この説が生まれた背景には、明治時代の日本の建築家において、﹁日本建築が西洋建築に対して遅れた物である﹂という大きな劣等感があったため、ヨーロッパ文化の原点であるギリシャと日本の建築がつながっていることを示す狙いがあったという。
なお、伊東忠太はこの説を証明するため、中国からインド・トルコなどを経てギリシャまで3年がかりで徒歩で旅行したが、日本とギリシャ以外のどこにもエンタシスの柱を見つけることはできず、結局この説を証明することは出来なかった。