「オキナワ移住地」の版間の差分
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[[ファイル:Colonia Okinawa.jpg|thumb|250px|オキナワ移住地の入口にある訪問者を歓迎する看板]]
{{Maplink2|frame=yes|frame-width=250|type=point|zoom=13}}
'''オキナワ移住地'''︵オキナワいじゅうち︶または'''コロニア・オキナワ'''︵{{lang-es-short|Colonia Okinawa}}︶は、[[ボリビア]]の[[サンタクルス県|サンタ・クルス県]]にある日本人移民の[[入植地]]である。[[ == 行政区分 ==
オキナワ移住地は、北から南に第1移住地、第2移住地、第3移住地の3つに分かれている{{sfn|ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会|2000|p=234}}{{sfn|南米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究|1986|p=85}}。これらの移住地はさらに細かく6つの行政区に [[1998年]]4月に第1移住地、第2移住地、第3移住地と周辺の19の村落と合わせて、ワルネス郡オキナワ村︵{{lang-es-short|[[:de:Municipio Okinawa Uno|Municipio Okinawa Uno]]}}︶の発足がボリビア政府により承認され{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=91}}、2000年に正式発足した{{sfn|ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会|2000|p=234}}{{efn|ボリビアでは日本における﹁市﹂﹁町﹂﹁村﹂の区別はなく、スペイン語の'''Municipio'''は単に﹁[[基礎自治体]]﹂を指す。ただし、ここでは引用文献に合わせて﹁村﹂と表記する。}}。日本国外でオキナワの名前を唯一持つ行政区である{{sfn|金武町史 移民本編|1996|p=229}}。役場は第1移住地に設置されている{{sfn|出稼ぎと移民|2008|p=443}}。 48 ⟶ 49行目:
}}
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オキナワ移住地は<!-- 、北から南に第1移住地、第2移住地、第3移住地からなり{{sfn|南米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究|1986|p=85}}、-->南北方向に細長い形をしている{{sfn|ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会|2000|p=234}}。[[サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ]]︵以後、﹁サンタ・クルス市﹂と記述︶の北東に位置し、第 === 地形 ===
オキナワ移住地が属するボリビアの東部低地帯は、[[アンデス山脈]]と[[ブラジル 第1移住地の北側に{{仮リンク|グランデ川 (ボリビア)|label=グランデ川|es|Río Grande (Bolivia)}}が流れており、この河川の氾濫によって一帯には微地形が確認できる{{sfn|南米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究|1986|p=13}}。また{{仮リンク|ピライ川 (ボリビア)|label=ピライ川 |es|Río Piraí (Bolivia)}}の支流の水源が第3移住地にあり、この河川は第2移住地を貫流し、第 === 地質 ===
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=== 土地利用 ===
既に説明した通り、オキナワ移住地は、第1移住地︵21,800ha︶、第2移住地︵16,700ha︶、第3移住地︵8,333ha︶と3つの移住地からなる{{sfn|南米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究|1986|p=85}}。総面積46,800haと広大で{{efn|2013年の[[沖縄県]]全体の農用地面積は約45,000haで、オキナワ移住地はそれより広い<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.pref.okinawa.jp/site/norin/norinkikaku/kikaku/documents/nosui2.pdf|title= 沖縄2一世紀農林水産業振興計画|publisher = 沖縄県|format=pdf|accessdate=2016-02-01}}</ref>。また移住地外にも農耕地を所有しており、2004年の資料では移住地外の所有地の面積は20,000haに及ぶ{{sfn|出稼ぎと移民|2008|p=443}}。従って、日系人が所有している農用地の面積は、沖縄県の全体の農用地面積より広大だと推定されている。}}、平坦な開拓地である{{sfn|南米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究|1986|p=85}}。 ==== 現況 ====
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2000年に発行された﹃日本人移住一〇〇周年誌 ボリビアに生きる﹄では﹁入植当初は広く[[原生林]]に覆われていたが、現在では原生林はほぼ姿を消し、周囲に再生林が残っている﹂としている{{sfn|ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会|2000|p=235}}。また移住者の移住地外の農地の購入も活発であり、2004年現在、オキナワ移住地外に移住者が所有する農地は20,000haに及ぶ{{sfn|出稼ぎと移民|2008|p=443}}。 ==== 入植以前 ====
入植地一帯は、まったく人間の手が入ることがなかった原始林ではなく、17世紀から18世紀ごろに[[サトウキビ]]の[[プランテーション]]として開拓されたあと、放棄されていた地域であった{{sfn|南米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究|1986|p=87}}。オキナワ移住地の入植者が井戸を掘った際に、その当時のものと類推される陶器類の出土があった == 産業 ==
移住地は、農業と牧畜業の第一次産業が主要な産業である。1971年、第1移住地、第2移住地、第3移住地のそれぞれ別個にあった[[農業協同組合 (世界)|農業協同組合]]を統合し、﹁コロニア沖縄農牧総合協同組合﹂︵略称‥CAICO︶が発足した。CAICOが中心となり、大型設備の導入が進められている。 === 農業 ===
移住地の主要な農作物は、入植直後に[[陸稲]]、1970年代に綿花、1980年代から[[大豆]]と推移してきた{{sfn|出稼ぎと移民|2008|p=439}}。現在でも最も作付面積が大きい作物は大豆である{{sfn|出稼ぎと移民|2008|p=439}}。1990年代に入り、大豆価格の下落と天候不順による価格低下に見舞われた{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=86}}。このため冬場の作物として[[小麦]]と[[ヒマワリ]]も導入され{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=86}}、主要作物として定着していった{{sfn|出稼ぎと移民|2008|p=439}}。その他に家畜飼料用として[[とうもろこし]]や[[モロコシ|ソルゴー]] [[File:Chart of harvest in Colonia Okinawa.svg|thumb|300px|オキナワ移住地の穀物収穫高の年次推移]]
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入植当初は、原始的な[[焼畑農業]]が行われていたが{{sfn|南米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究|1986|p=89}}、1970年代の綿花栽培の導入時に、[[国際協力事業団]]の融資などをうけて短期間に機械化が進行した{{sfn|南米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究|1986|p=90}}。綿花栽培は、天候不順︵多雨︶、[[連作#連作障害|連作障害]]による農薬の多投、綿花の国際相場の下落などにより1976年から急速に減少した{{sfn|南米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究|1986|p=90}}。移民者には多額の債務が残ったが、結果として短期間に原始的な焼畑農業から脱却をはかり、機械化された大規模農場の経営に大転換することに成功した{{sfn|南米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究|1986|p=90}}。 2002年には、ボリビア政府より﹁小麦の首都︵{{lang-es-short|La Capital Triguera de Bolivia}}︶﹂として認定された{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=92}}。これは、ボリビアの熱帯地方での小麦栽培発祥の地として評価されたものである{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=92}}。 221 ⟶ 222行目:
移住地ではCAICOを中心とし、農作物を加工し付加価値のある加工品製造にも乗り出している。
米の販路拡大を目指して、2005年にCAICO直営の精米所が落成した{{sfn|出稼ぎと移民|2008|p=440}}。2006年には、第2移住地に乳製品の加工工場を建設した{{sfn|出稼ぎと移民|2008|p=440}}。 == 移民の背景 ==
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{{Quotation|
年々人口が増大する一方、耕地の減少していく人々にとっては、将来は不安定である。不安や不満は殊に、沖縄の青年間にあっては、必然的に土地所有や十分な生活への失望を伴うものである。共産主義は青年に訴えることを常套手段として、共産主義陣営の各地で大成功を収めていることに鑑み、沖縄の青年は共産主義に感化されやすい要素を多分に備えていると言うことが出来る。移民計画にある通り、海外に広大な無償土地を求めることは青年に新たな希望を与え、彼等の不安や、共産主義の虚栄の報酬の約束に対する感化に、対処することが出来るのである。|『ティグナー報告書』|{{Harvtxt|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|pp=420}}}}
アメリカ民政府と琉球政府は、戦前のボリビア移民による「うるま農産業組合」の計画と、この「ティグナー報告書」を拠り所として、ボリビアへの農業移住計画案として具体化していくことになった。
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ただ、[[グアテマラ]]や[[ガイアナ]]に過激派政府が成立すると、ラテンアメリカ地域への影響力低下が懸念された。当初﹁独裁政権﹂と見なしていたボリビアの国民革命運動党政府を、逆に支援することが、ボリビアの共産主義革命を防ぐ唯一の策と考えるようになった{{sfn|クライン、ボリビアの歴史|2011|p=314}}。アメリカ政府はパス・エステンソロを共産主義政権への転換を防ぐ人物として受け入れ、またパス・エステンソロも親米派の立場を取ることでアメリカの強い圧力を回避していった{{sfn|クライン、ボリビアの歴史|2011|p=315}}。 ==== 岸信介
すでに琉球政府によるボリビア移民が始まっていたが[[1957年]]、内閣総理大臣に就任した[[岸信介]]は、沖縄の返還、基地および沖縄県民の海外移民に関心を寄せていたことが知られている{{efn|岸信介は1954年に設立された日本ボリビア協会の初代会長であった{{sfn|若槻、発展途上国への移住の研究|1987|p=11}}。日本ボリビア協会の設立目的は日本国内のボリビア移住への機運を盛り上げることにあった{{sfn|若槻、発展途上国への移住の研究|1987|p=11}}。}}。
同年の6月、訪米した岸と[[ジョン・フォスター・ダレス|ダレス]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]との会談が行われた{{sfn|平良、戦後沖縄と米軍基地|2012|p=177}}。ここで岸は﹁沖縄ではみずからの土地を接収された農地のための代替地はない{{sfn|平良、戦後沖縄と米軍基地|2012|p=177}}。アメリカはこの被害にあった人々の他国への移住を援助できるのか﹂﹁沖縄住民の再定住先として信託統治領、[[サイパン島|サイパン]]や[[テニアン島|テニアン]]などはどうか﹂と問いかけた{{sfn|平良、戦後沖縄と米軍基地|2012|p=177}}。これに対して、ダレス国務長官は﹁検討してみる﹂と応じた{{sfn|平良、戦後沖縄と米軍基地|2012|p=177}}。 === ボリビア政府の事情 ===
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==== 東部開発 ====
ボリビアの東部開発計画は、[[チャコ戦争]]で[[パラグアイ]]に敗れ、[[グラン・チャコ]]を失ったことに始まる{{sfn|国本、ボリビアの日本人村|1989|p=22}}。この敗北で国家の近代化の必要性を痛感したボリビアのエリートたちは、﹁東部への前進︵{{lang-es-short|Marcha al Este}}︶﹂東部低地の開発計画に着手した{{sfn|国本、ボリビアの日本人村|1989|p=22}}。1938年にブラジルと協定を結び、石油を輸送するためサンタ・クルスからブラジル国境のコルンバまでの鉄道建設に合意した{{sfn|国本、ボリビアの日本人村|1989|p=22}}。また1942年にアルゼンチンと、サンタ・クルスからアルゼンチン国境のヤクイバまでの鉄道建設に合意した ==== 経済状況 ====
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==== 生活状況 ====
ボリビア革命前に2年間にわたってボリビアを詳細に調査したO.E.レオナードは自著で﹁ボリビアの家庭にみられる文化的特色のうち顕著なものに、ほとんどの家庭に家具がないことがあげ またレオナードはボリビアの東部低地帯の農村には﹁便所という概念自体が存在しない﹂とした{{sfn|ボリビア:土地・住民・制度|1963|p=190}}。﹁彼らに便所に関する質問をしても質問の意味自体を理解できなかった﹂と報告している{{sfn|ボリビア:土地・住民・制度|1963|p=190}}。 363行目:
第1次移民団が到着したとき、5haほどの森林が伐採され、その土地に丸太小屋が建設中という状態であった{{sfn|安谷屋、コンドルの舞う国|2008|p=59}}。10mほどの井戸が1基掘られていたが、出てくる水は塩水であった{{sfn|安谷屋、コンドルの舞う国|2008|p=59}}。食料米は十分であった。しかし、野菜類が不足し、肉類も冷蔵庫がなく保存ができず、日々の栄養はバランスを欠いていた{{sfn|ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会|2000|p=244}}。さらに、1954年は、大干ばつで入植から3ヶ月間余り、ほとんど雨が降らなかった{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=67}}。 {{Quotation|大変な所に来てしまった。自分で選んだ道だから仕方がないがやるしかないか。|安仁屋晶 |{{Harvtxt|安仁屋、コンドルの舞う国|2008|pp=60}}}}▼
▲大変な所に来てしまった。自分で選んだ道だから仕方がないがやるしかないか。
10月30日に入植以来初めての死者が出た{{sfn|ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会|2000|p=244}}。原因不明の熱病であった{{sfn|ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会|2000|p=244}}。11月に入ると同様の症状を訴える病人が続出し、移住者の多くがこの謎の熱病に襲われた{{sfn|ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会|2000|p=244}}。移住者はこの謎の病気を﹁うるま病﹂と呼んだ{{sfn|ボリビア日本人移住一〇〇周年移住史編纂委員会|2000|p=244}}。また、測量の結果、うるま移住地は洪水地帯であることが明らかになり、気候も必ずしも農業に適していないことが判明した{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=67}}。移民たちは不安と混乱でパニック状態に陥った{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=67}}。 384 ⟶ 381行目:
{{Quotation|
︵先輩移住者たちは︶沖縄から持ってきた蓄えは底をつき、誰一人として持っているものは何一つ持っていなかった。私達が到着したとき、先輩移住者が身に着けていたものすべてボロボロ、彼らはほとんど現地の貧しい人々そのものでなかっただろうか。|具志堅興貞|{{harvtxt|具志堅、沖縄移住地|1998|pp=80}}}} === 第2移住地と第3移住地の建設 ===
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||2||1954年7月18日||テゲルベルグ号||24||106||21||127||27||21.3%||船中出産2名
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||3||1955年12月19日||チチャレンカ号||26||109||13||122||21||17.2%||先に単身で移民した男性と[[写真花嫁|写真見合い]]による呼び寄せ移民の10人の花嫁がいたことから、俗に「花嫁移民団」とも呼ばれた{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=72}}
|-
||4||1957年10月22日||チサダネ号||39||209||5||214||45||21.0%||
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1968年に、国際協力事業団は﹁オキナワ移住地動態調査﹂を行った{{sfn|出稼ぎと移民|2008|p=433}}。この調査によると移住から12年後には入植者の36.3%が移住地から転住︵死者70人も含む︶していると分析した{{sfn|出稼ぎと移民|2008|p=433}}。 オキナワ移住地の入植者の動態を詳細に報告したものには、石川友紀による﹁ボリビア国コロニアオキナワ移民の再移住に関する実証的考察﹂がある{{sfn|出稼ぎと移民|2008|p=433}}。石川の調査によると、琉球政府の移民計画下で行われた第1次から第19次の移住者総数3,231人のうち2,599人が1979年までに移住地を去っていることを明らかにした{{sfn|出稼ぎと移民|2008|p=433}}。定着率は19.9%と極めて低いことがわかる。 また石川の調査によると、オキナワ移住地への入植者のうち1,736人がボリビア国外へ転出、ブラジルに1,088人、アルゼンチンに578人と国外転出者の実に約96%が両国への再移民になったことが明らかになった{{sfn|出稼ぎと移民|2008|p=435}}。この理由として、ブラジルとアルゼンチンには戦前からの沖縄県出身移民者が数多く存在し、かつボリビアより経済状態が良かったことが挙げられる{{sfn|出稼ぎと移民|2008|p=435}}。 539 ⟶ 533行目:
ブラジルにおけるオキナワ移住地からの再転出者は、沖縄出身のブラジル移民の血縁または地縁による呼び寄せによる{{sfn|石川、日本移民の地理学的研究|1997|p=592}}。そのほとんどが[[サンパウロ]]に集中している{{sfn|石川、日本移民の地理学的研究|1997|p=592}}。その中でも、ビーラカロン地区︵Vila Carrão、{{ウィキ座標|23|32|59.8|S|46|32|3|W|region:BR|地図|name=サンパウロ、ビーラカロン地区}}︶、サンマテウス地区、カーザベルデ地区︵Casa Verde、{{ウィキ座標|23|29|53.87|S|46|39|2.7|W|region:BR|地図|name=サンパウロ、カーサベルデ地区}}︶の3地域に集団を形成している{{sfn|石川、日本移民の地理学的研究|1997|p=592}}。 サンパウロのビーラカロン地区では、1957年に在ブラジルオキナワ県人会の支部としてビーラカロン支部が発足した{{sfn|ブラジル国サンパウロ市ビーラカロン地区における沖縄県出身移民の分布と職業構成|1988|p=4}}。発足当初の会員数は27人 === サンタ・クルス市への再転出 ===
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エボ・モラレスは大規模農園主の所有地を接収し、先住民農家に配分する政策を進め、2009年1月に承認された修正憲法で土地所有の上限を5000haに制限した{{sfn|朝日新聞、ボリビア、大地主から土地没収 先住民に配分、不安募る日本人移民|2009}}。2009年3月には、サンタ・クルス県のアメリカ人などの大地主から没収した38,000haの土地を先住民農民に譲り渡すと宣言を行った{{sfn|朝日新聞、ボリビア、大地主から土地没収 先住民に配分、不安募る日本人移民|2009}}。 エボ・モラレスは2007年3月に日本を訪問した際、﹁日系人の農業経営や安全を脅かさない﹂と日本政府に公言した{{sfn|朝日新聞、ボリビア、大地主から土地没収 先住民に配分、不安募る日本人移民|2009}}。しかし、あるボリビアの日系人弁護士は﹁先住民に支えられているモラレス政権が、不法に入り込んだ先住民を排除してくれるかは疑問だ﹂と話した{{sfn|朝日新聞、ボリビア、大地主から土地没収 先住民に配分、不安募る日本人移民|2009}} == 移民者の意識 ==
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アメリカ統治下の沖縄において本土復帰運動のリーダーで、[[コザ市|コザ市長]]を16年務めた[[大山朝常]]は、琉球政府のボリビアの移民計画について以下のように証言している{{efn|また藤崎康夫が大山朝常に聞いた話として、大山は﹁[[立法院 (琉球)|立法院]]議員であった1955年、軍用地問題のため琉球政府代表使節団の一員としてアメリカ本土へ訪問した。このとき、アメリカ政府にボリビアへの移民について謝辞を述べた。また、新たな沖縄県民の移住先としてインドネシアとマリアナ諸島の検討を求めたが、マリアナ諸島はアメリカ海軍の反対、インドネシアについては政情不安を理由に認められなかった﹂と語っている<ref>{{Cite journal|和書|author = 藤崎康夫|authorlink = 藤崎康夫|date = |year = |month = |title = 日系人と日本‥戦後、海外移民の再開|journal = 日系人ニュース|issue = 97|page = 2|publisher = 公益財団法人海外日系人協会|url = http://www.jadesas.or.jp/Nikkeijinnews97.pdf|format = pdf}}日系人ニュース No.97</ref>}}。 {{Quotation|基地で土地を奪われた人たちを当初、アメリカに移住させようとアメリカ政府と交渉した。しかし、この提案は受け入れられず、出てきたのはボリビアへの移民計画だった。|大山朝常|{{Harvtxt|日系人の歴史を知ろう|2008|pp=141}}}}▼ ==== 大宅壮一の見聞 ====
評論家の[[大宅壮一]]は、1954年から1955年にかけて取材旅行で世界各地を訪問した。大宅は、[[チリ]]の[[アリカ]]から空路でボリビアの[[ラパス]]に入った{{efn|大宅がボリビアに滞在中、ボリビア通貨の下落がとまらず、﹁ボリビアの金は、私の滞在中にも下落をつづけ、自由相場は一ドルについて二千ボリビアノスに近づいた。ホテルの払いは、食事もついて、一日五十セントくらいにしかならない。こんどの旅行でレコードだ︽原文ママ︾﹂と記している{{sfn|大宅壮一全集第十九巻﹁世界裏街道を行く2-南北アメリカ編﹂|1981|p=210}}。}}。ここで、市内見物や日系移民の経営する繊維工場の見学、ラパス日本人会で講演などの後{{efn|この時、衆議院議員だった[[今村忠助]]もラパスに滞在しており、大宅と接触があった{{sfn|大宅壮一全集第十九巻﹁世界裏街道を行く2-南北アメリカ編﹂|1981|p=198}}。今村忠助は日本本土からボリビアに大規模移民する計画を持っており、ボリビア政府に提案したところ好感触を得たと大宅に語っている{{sfn|大宅壮一全集第十九巻﹁世界裏街道を行く2-南北アメリカ編﹂|1981|p=198}}。}}、サンタ・クルスを訪問した。サンタ・クルスにて戦前からの日系人と対話を持ち、オキナワ移住地について大宅が伝聞したことを以下のように記している。 {{Quotation|最近アメリカの軍部が沖縄移民を大量に送り込んだのは、ここ︵サンタ・クルス︶から九十キロ<!--原文ママ-->ばかりはなれたところである。日本政府はもちろん、アメリカ内務省の了解なしに勝手に送り込み︵中略︶、感情的にうまくいっていないらしい。それに衛生施設などをテンデ<!--原文ママ-->考えていないものだから、マラリアなどで倒れるものが続出し、大いに物議をかもしている。軍部のやることはどこも同じらしい。|大宅壮一|{{Harvtxt|大宅壮一全集第十九巻﹁世界裏街道を行く2-南北アメリカ編﹂|1981|pp=203}}}}▼ ▲最近アメリカの軍部が沖縄移民を大量に送り込んだのは、ここ︵サンタ・クルス︶から九十キロ<!--原文ママ-->ばかりはなれたところである。日本政府はもちろん、アメリカ内務省の了解なしに勝手に送り込み︵中略︶、感情的にうまくいっていないらしい。それに衛生施設などをテンデ<!--原文ママ-->考えていないものだから、マラリアなどで倒れるものが続出し、大いに物議をかもしている。軍部のやることはどこも同じらしい。 ==== 在ボリビア・アメリカ大使館の忠告 ====
アメリカ在住で﹁アメリカ軍基地とボリビア移民﹂をテーマとして研究活動を行っている雨宮和子は、夫から以下のような話を聞いたと述べている{{sfn|日本から一番遠いニッポン|2008|p=194}}。 {{Quotation|1970年代初め、農業の専門家としてボリビアに調査に来ていた彼は、(在ボリビア)アメリカ大使館で「オキナワ移住地には行かないほうがいい」と忠告されたんだそうです。「'''彼らは米軍機でジャングルに棄てられた人々で、いつも飲んだくれて喧嘩ばかりしている'''」と。当時はそんなふうに噂されていたんですね。|雨宮和子|{{Harvtxt|日本から一番遠いニッポン|2008|pp=194}}}}▼
▲1970年代初め、農業の専門家としてボリビアに調査に来ていた彼は、︵在ボリビア︶アメリカ大使館で﹁オキナワ移住地には行かないほうがいい﹂と忠告されたんだそうです。﹁'''彼らは米軍機でジャングルに棄てられた人々で、いつも飲んだくれて喧嘩ばかりしている'''﹂と。当時はそんなふうに噂されていたんですね。 ==== 元入植者の声 ====
ボリビアのオキナワ移住地に移民し、その後、アルゼンチンに再移住した後に日本に戻ってきた元移民者のある男性は、孫にボリビアの移民について以下のように語った。
{{Quotation|戦争が終わって壕から出て収容所生活の後、村にもどったら、屋敷は米軍基地になっていた。米軍の払い下げテントに四家族で住んでい ▲戦争が終わって壕から出て収容所生活の後、村にもどったら、屋敷は米軍基地になっていた。米軍の払い下げテントに四家族で住んでいだ。仕切りは段ボール箱、背を伸ばせば隣の家族生活が見えた。ボリビア移住の誘いがあり、'''ボリビアに移民したが、ひどい所だった'''。︵その後︶アルゼンチンへ移り生活した。10年前、日本へ戻ってきた。'''結局、私たちは棄てられた民だったのです'''。 ==== パス・エステンソロの回顧 ====
琉球政府とオキナワ移住地入植を合意した時のボリビア大統領であったパス・エステンソロは入植40周年式典に招かれた{{sfn|日本から一番遠いニッポン|2008|pp=190}}。式典でパス・エステンソロは以下のように回顧した{{sfn|日本から一番遠いニッポン|2008|pp=190}}。 {{Quotation|入植当初、'''原生林に飲み込まれそうになっている日本人を見て、絶対に成功するはずはないと確信した'''。しかし今日、コロニアの繁栄ぶりを見て我が目を疑った。|パス・エステンソロ|{{Harvtxt|日本から一番遠いニッポン|2008|pp=190}}}}▼
== 移民者に対する批判 ==
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715haを所有している大規模農園の経営者となった移住者は、以下のような話をした{{sfn|ボリビア移民聞書|1986|p=31}}。彼は、収穫、除草、トラクターの運転手などを含め常時10人程度のボリビア人を使用していた{{sfn|ボリビア移民聞書|1986|p=31}}。 {{Quotation|以前に沖縄のアメリカ<!-- 原文まま -->ー<!-- 原文まま -->が沖縄人(ウチナンチュー)を使っていたように、顎でこき使っていますよ|オキナワ移住地で、ある大規模農園を経営している入植者|{{Harvtxt|ボリビア移民聞書|1986|pp=31}}}}▼
▲以前に沖縄のアメリカ<!-- 原文まま -->ー<!-- 原文まま -->が沖縄人(ウチナンチュー)を使っていたように、顎でこき使っていますよ
ボリビアの日系移住地で聞き取り調査を行った石田甚太郎は﹁事前調査も不満足なまま異国に送り出された移民は、まさにジャングルに棄てられた[[棄民]]だった。だが、日本の経済復興にともない、日本政府の財政援助が増加し個人的な努力ともあいまって、弱者を切り捨て、いまや移民の主流は企業家であり資本家になった﹂とした。その上で﹁企業家になった移民たちには、新たな試練が近づいているような気がした。ボリビア人労働者を使用しないでは成立しない企業にもかかわらず、賃金問題や労働条件︵住居、衛生施設、有害な[[農薬]]の散布︶などを見れば、彼らは農奴待遇であった﹂と指摘した{{sfn|ボリビア移民聞書|1986|p=258}}。石田は更に﹁ボリビア人の農場主はもっと 2004年に行われた入植50周年式典で大統領が述べた祝辞について、サンタ・クルス県の新聞﹁{{仮リンク|エル・デベール|en|El Deber}}﹂は、批判的な記事を掲載した{{sfn|日本から一番遠いニッポン|2008|p=189}}。大統領が﹁︵オキナワ移住地を︶国全体が追求すべきお手本﹂としたことについて、﹁︵大統領のコメントは︶見当はずれ。日本人移住地は、日本やボリビア政府から特別な援助を受けているから、成功して当然だ﹂という地元のボリビア人の農業代表の意見を掲載した{{sfn|日本から一番遠いニッポン|2008|p=189}}。また﹁入植者たちはスペイン語もわからないまま、大統領の言葉に拍手していた﹂と書いた{{sfn|日本から一番遠いニッポン|2008|p=189}}。 841 ⟶ 811行目:
== 移住地の文化 ==
=== 言語 ===
入植当初は、孤立した集落であったため[[沖縄方言|ウチナーグチ]]︵沖縄方言︶が一般的に使用されていた{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=304}}。その後、子弟が学校に通い始めると、ウチナーグチ、日本語、スペイン語の3種類を混ぜて使うようになった{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=304}}。その比率は、世代、地域によって違うが、ボリビア人社会 オキナワ移住地ではウチナーグチが沖縄県よりも色濃く残っているともいわれていたが、時代の流れと共に使われなくな === 沖縄の伝統芸能 ===
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* 平良勝芳
: 初代オキナワ村の村長。第4次移民で両親に連れられて入植した。2000年の選挙で当選し、2004年の2期目を目指した選挙でボリビア人の対立候補に敗れた。 * [[新垣まゆみ]]
: オキナワ村議会議員。2021年の選挙で当選した。
=== 移住地から沖縄県に持ち込まれた植物 ===
[[File:Ceiba speciosa 1.jpg|thumb|「南米ざくら」こと[[トックリキワタ]]の花]]
* [[トックリキワタ]]
:トックリキワタ︵別名‥トボロチ︶は、[[アオイ科]]︵旧[[パンヤ科]]︶の落葉高木でピンク色の大きな花が咲く樹木である{{sfn|図鑑 琉球列島有用樹木誌|1989|p=200}}。[[琉球政府]]の農業技術者であった[[天野鉄夫]]が、1964年、オキナワ移住地で開かれたボリビア移住10周年記念式典に参加した際に、ボリビアから種子を持ち帰ったことによる{{sfn|天野、私の半生と研究|1988|p=19}}。帰国後、天野の自宅で種子から苗木を育て、1970年に初めて開花した{{sfn|図鑑 琉球列島有用樹木誌|1989|p=200}}。その後、沖縄県の各地に植樹された{{efn|[[沖縄都市モノレール線]]の[[おもろまち駅]]にトックリキワタの導入樹木とされる﹁天野株﹂が現存している<ref name="沖縄県環境部環境再生課﹁トックリキワタ天野株﹂">{{Cite web * [[キリモドキ属|ジャカランダ]]
:[[ノウゼンカズラ科]]の落葉高木で、青紫色の小さな花を多数つける樹木である{{sfn|図鑑 琉球列島有用樹木誌|1989|p=317}}1964年に、トックリキワタと同様に琉球政府の農業技術者であった天野鉄夫が沖縄に持ち帰り、開花に成功させた{{sfn|図鑑 琉球列島有用樹木誌|1989|p=317}}。満開時に紫雲がたなびいて見えるように見えることから、天野が﹁紫雲木︵シウンボク︶﹂と命名した{{sfn|天野、私の半生と研究|1988|p=19}}。 886 ⟶ 858行目:
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|
== 参考文献 ==
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* {{Cite book|和書|author = 沼尾実|date = 1996|title = 多文化共生をめざす地域づくり|publisher=明石書店|isbn= 4-7503-0873-0 |ref = {{Harvid|沼尾、多文化共生をめざす地域づくり|1996}} }}
* {{Cite book|和書|author = 石川友紀|date = 1997|title = 日本移民の地理学的研究 : 沖縄・広島・山口|publisher=榕樹書林|isbn= 4-94766737-0 |ref = {{Harvid|石川、日本移民の地理学的研究|1997}} }}
* {{Cite book|和書|author = 具志堅興貞|editor=照井裕|date = 1998 |title = 沖縄移住地 ボリビアの大地とともに|publisher=沖縄タイム
* {{Cite book|和書|editor= 黒古一夫|year= 2004|title= 大城立裕文学アルバム|publisher= 勉誠出版|isbn= 978-4-
* {{Cite book|和書|ref = {{Harvid|安仁屋、コンドルの舞う国|2008}} |author = 安仁屋晶|title = コンドルの舞う国:ボリビア移住記|date = 2006|publisher=''自費出版''|ncid= BA77590862 }}
* {{Cite book|和書|author = 高橋幸春|date = 2008|title = 日系人の歴史を知ろう|publisher=岩波書店|isbn= 978-4-00500605-2 |ref = {{Harvid|日系人の歴史を知ろう|2008}} }}
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* {{Cite book|author= 名護市史編さん委員会|title= 出稼ぎと移民 2 出稼ぎ=移民先編(上)|date = 2008|publisher= [[名護市]]|ncid= BB0408253X|ref = {{Harvid|出稼ぎと移民|2008}} }}
* {{Cite book|author= 与那原町史編集委員会|title= 与那原町史 資料編1 移民|date = 2006|publisher= [[与那原町]]|ncid= BA78338392|ref = {{Harvid|与那原町史|2006}} }}
* {{Citation|和書|author = 生野恵理子 |editor = 移民研究会 |date = 2008 | periodical= 日本の移民研究:動向と文献目録| volume =2|title =越境する日系ボリビア人|publisher = 明石書店 |isbn= 4-7503-2702-
* {{Cite book|和書|author = ハーバート・S.クライン|first=Herbert|last=Klein| translator = 星野靖子|date = 2011 |title = ボリビアの歴史| series = ケンブリッジ版世界各国史|publisher=創土社|isbn= 978-4-7988-0208-4 |ref = {{Harvid|クライン、ボリビアの歴史|2011}} }}
* {{Cite book|和書|author=平良好利 |date = 2012|title = 戦後沖縄と米軍基地: 「受容」と「拒絶」のはざまで 1945~1972年|publisher=法政大学出版局 |isbn= 4-58832129-3|ref={{Harvid|平良、戦後沖縄と米軍基地|2012}} }}
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* {{Cite book|和書|editor = 金武町史編さん委員会|date = 1996|title = 金武町史 移民本編|publisher=金武町史編さん委員会|ncid= BN15343232|volume = 1|ref = {{Harvid|金武町史 移民本編|1996}} }}
* {{Cite book |last= Amemiya|first= Kozy K|year= 1996|title= The Bolivian connection: US bases and Okinawan emigration|publisher= Japan Policy Research Institute|url = http://www.jpri.org/publications/workingpapers/wp25.html}}
* {{Cite book|和書|author = 雨宮
* {{Cite book|和書|author = 雨宮
* {{Cite book|和書|author = 天野鉄夫|date = 1989|title = 図鑑 琉球列島有用樹木誌|publisher=沖縄出版|ncid=BN04073114|ref = {{Harvid|図鑑 琉球列島有用樹木誌|1989}} }}
* {{Cite journal|和書|author = 天野鉄夫|title = 私の半生と研究|date = 1988-03|publisher = 沖縄県立図書館史料編集室|journal = 史料編集室紀要 |volume = 13|naid = 40004698350|pages = 2-26|ref = {{Harvid|天野、私の半生と研究|1988}} }}
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[[Category:アメリカ施政権下の沖縄]]
[[Category:日本・ボリビア関係]]
[[Category:琉球人街]]
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