「シカゴ交響楽団」の版間の差分
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第4代音楽監督には、前年にニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団で理事会と対立して音楽監督を辞任した[[アルトゥール・ロジンスキ]]が就任する。[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の楽劇の演奏会形式での上演、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]やリヒャルト・シュトラウスの作品のレコーディングでも名盤を残した。しかし1年目にして3万ドルの赤字を出すなどしたため、クビになってしまう。キャシディはロジンスキーを擁護していた。また、当時学生であったトランペット奏者[[アドルフ・ハーセス]]をCSOに入団させたのは、実はこのロジンスキーであった。 1948年、第5代音楽監督として当時世界的な巨匠指揮者であった[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]を迎えるべく、内密に交渉を進めていた。しかし 1950年、当時まだ36歳だったチェコ人指揮者[[ラファエル・クーベリック]]を第5代音楽監督として迎え入れる。[[マーキュリー・レコード|マーキュリー]]に[[ベドルジハ・スメタナ|スメタナ]]、[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]、[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の名盤を残すが、キャシディの批評に嫌気がさしたこともあり辞任した。 === 第6代ライナー時代
1953年、現在のシカゴ交響楽団のヴィルトゥオーソ・オーケストラとしての基礎を築き上げたハンガリー人指揮者[[フリッツ・ライナー]]が第6代音楽監督に就任する。ライナーはアンサンブルを練り上げ、首席奏者の入れ替えを積極的に行い︵チェロに若き日の[[ヤーノシュ・シュタルケル]]を招聘したのもライナーである︶格段のレベルアップを実現し、シカゴ交響楽団はアメリカ最高のオーケストラのひとつに数えられるようになった。ライナーの治世が、シカゴ交響楽団の第1期黄金時代であったことは確かである。ライナーはシカゴ交響楽団とともに[[RCAレコード|RCAレーベル]]におびただしい録音をおこない、中でも[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、リヒャルト・シュトラウス、[[オットリーノ・レスピーギ|レスピーギ]]、[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]、ブラームス、ドヴォルザーク、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]などに名盤が残された。キャシディのライナー評も好意的であった。 57行目:
マルティノン辞任からショルティ就任までの1968-69年のシーズンは、副指揮者の[[アーウィン・ホフマン]]が音楽監督代行としてつないだ。
=== 第8代ショルティ時代
1969年、第8代音楽監督として[[ゲオルク・ショルティ]]が就任。ショルティは50年代に客演した際、キャシディに酷評されたことがあり、彼女がまだ評論をしていたらシカゴに来ることはなかっただろうと述べている。楽団理事長・GM・組合代表も交代して、楽団の雰囲気も大きく変化した。ショルティは当初、[[カルロ・マリア・ジュリーニ]]との共同音楽監督を提案したが、ジュリーニが首席客演指揮者としてショルティを支援する体制となった。またベートーヴェン、ブラームス、マーラー、ブルックナーの交響曲全集をはじめとして多くのジャンルにおいて膨大な録音を[[デッカ・レコード|デッカ]]に行った。 1970年には、今日でも語り草になっている[[カーネギー・ホール]]での[[交響曲第5番 (マーラー)|マーラー交響曲第5番]]の大成功があり、引き続き1971年に行われた念願のヨーロッパ演奏旅行は、ジュリーニも帯同し、ウィーンでのマーラー交響曲第8番の録音も含めた約1.5ヶ月にもわたるイベントであったが、各地で大きな好評を博した 特に70年代後半以降、首席奏者に交代がほとんどないなど安定した実力を発揮し続け、ヨーロッパへもたびたび渡るなど活躍を続けた。そのため、ショルティ時代にはシカゴ交響楽団はライナー時代に次ぐ第2期黄金時代を迎え、世界最高のオーケストラの1つと言われるようになった。[[グラミー賞]]の受賞数はおびただしく、受賞したアルバムの抜粋だけで専用アルバムを作ってしまうほどであった。 |