「シカゴ交響楽団」の版間の差分
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1969年、第8代音楽監督として[[ゲオルク・ショルティ]]が就任。ショルティは50年代に客演した際、キャシディに酷評されたことがあり、彼女がまだ評論をしていたらシカゴに来ることはなかっただろうと述べている。楽団理事長・GM・組合代表も交代して、楽団の雰囲気も大きく変化した。ショルティは、自分とはタイプの異なる指揮者[[クラウディオ・アバド]]、[[カルロ・マリア・ジュリーニ]]を首席客演指揮者として迎え入れた。またベートーヴェン、ブラームス、マーラー、ブルックナーの交響曲全集をはじめとして多くのジャンルにおいて膨大な録音を[[デッカ・レコード|デッカ]]に行った。 1970年には今日でも語り草になっている[[カーネギー・ホール]]での[[交響曲第5番 (マーラー)|マーラー交響曲第5番]]の大成功があり、引き続き1971年に行われた念願のヨーロッパ演奏旅行は、ジュリーニも帯同し、ウィーンでのマーラー交響曲第8番の録音も含めた約1.5ヶ月にもわたるイベントであったが、各地で大きな好評を博した︵ベルリンのマスコミだけは最後まで認めようとしなかった︶。帰国した彼らを市民らが大パレードで歓迎したことは有名である。この出来事以来、シカゴ交響楽団の存在が世界に知られるようになり、Solti/Chicagoという呼ばれ方が定着して楽団員の士気も高まった。 特に70年代後半以降、首席奏者に交代がほとんどないなど安定した実力を発揮し続け、ヨーロッパへもたびたび渡るなど活躍を続けた。そのため、ショルティ時代にはシカゴ交響楽団はライナー時代に次ぐ第2期黄金時代を迎え、世界最高のオーケストラの1つと言われるようになった。[[グラミー賞]]の受賞数はおびただしく、受賞したアルバムの抜粋だけで専用アルバムを作ってしまうほどであった。 |