フゴッペ洞窟
概要
編集立地
編集日本海の海岸から南方約250メートル[1]に立地し、通称「丸山」と呼ばれる砂岩質よりなる小丘陵の東方に面した岩陰遺跡である[5]。余市水産博物館が管理している[1]。
発見と調査
編集遺跡概要
編集洞窟の開口部を完全に覆うように建設されている。
「フゴッペ遺跡」
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「フゴッペ洞窟」ではなく「フゴッペ遺跡」と呼ばれる場合には、昭和2年に鉄道工事中に発見された古代文字様の壁画と石偶を表す場合があるので、混同しないよう注意が必要である。
第二次世界大戦前に発見されたフゴッペの遺跡は『小樽新聞』昭和2年11月14日によると、鉄道工事作業員の宮本義明によって発見された。鉄道敷設に際してフゴッペの丸山を掘削して2つに分けたのだが、その壁面に古代文字のような壁画と石偶のようなものが出現し話題となった。
違星北斗の論文はこの「古代文字」について論じたものである。
この古代文字に関しては小樽高等商業学校の西田彰三教授によって「この遺跡はアイヌのものである」と発表されたが、アイヌ出身である違星北斗による「この遺跡はアイヌのものではない、現代人によるニセモノではないか」という反論が、同じく『小樽新聞』に掲載された「疑ふべきフゴツペの遺跡」である。
小樽文学館の展示物によると『小樽新聞』では発見は大正14年であるとなっているようだが、昭和2年の間違いであろうと思われる。
戦前の『余市郷土誌』では周辺の農夫が客土用の土を採取している際に発見となっているようだがこれも疑わしい。
北斗の「フゴッペの遺跡」と国の史跡に指定された「フゴッペ洞窟」は厳密にいえば異なるものであるが、北斗の論文には遺跡の場所、函館本線からの距離、周囲の状況が明示されている。
まさしく現在の「フゴッペ洞窟」の裏側の壁面であり、2つの遺跡にまったく関連性がないとは考えにくい。
現在戦前のフゴッペの壁画は現存しない。
違星北斗同様、金田一京助も戦前のフゴッペ壁画がニセモノであると断定し、昭和天皇に尋ねられた際にも知人のアイヌが少年時代に描いたイタズラ書きであると伝えたという。
脚注
編集関連文献
編集- 『フゴッペ洞窟・岩面刻画の総合的研究』小川勝編 中央公論美術出版、2003年12月 ISBN 4-8055-0460-9
- 『フゴッペ洞窟 : 謎の刻画』峰山巌文、掛川源一郎写真 六興出版、1983年3月 国立国会図書館書誌ID:000001610625
- 『フゴッペ洞窟』フゴッペ洞窟調査団編 ニュー・サイエンス社、1970年 国立国会図書館書誌ID:000001215147
関連項目
編集- 北海道・東北地方の史跡一覧
- 続縄文時代
- 洞窟壁画
- 岩陰遺跡
- 違星北斗 - 戦前のフゴッペ壁画を研究した人物。
外部リンク
編集- フゴッペ洞窟 - 余市町ホームページ
- 『フゴッペ洞窟』 - コトバンク
- 国指定史跡 フゴッペ洞窟 1950-2003 (余市町教育委員会) - 余市町ホームページ掲載
- フゴッペ洞窟
- 戦前のフゴッペ遺跡発見記事(小樽新聞)
- 「疑ふべきフゴツペの遺跡」テキスト(違星北斗)
座標: 北緯43度11分42.3秒 東経140度50分18.0秒 / 北緯43.195083度 東経140.838333度