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{{Portal クラシック音楽}}
'''レクイエム ニ短調'''︵独語名‥''Requiem in d-Moll''︶[[ケッヘル番号|K. 626]]は、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]︵1756年 - 1791年︶が作曲した[[レクイエム]]︵死者のための[[ミサ曲]]︶である。モーツァルトの最後の作品であり、モーツァルトの死によって作品は未完のまま残され、弟子の[[フランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー]] しばしば、[[レクイエム (ヴェルディ)|ヴェルディ]]、[[レクイエム (フォーレ)|フォーレ]]の作品とともに﹁三大レクイエム﹂の一つに数えられる。 20 ⟶ 22行目:
9月中旬、プラハから戻ったモーツァルトは﹃魔笛﹄の残りを急いで書き上げ、[[9月30日]]の初演に間に合わせる。その後、レクイエムの作曲に取りかかるが、体調を崩しがちとなり、11月20日頃には床を離れられなくなってしまう。12月になると病状はさらに悪化して、モーツァルトは再び立ち直ることなく[[12月5日]]の未明に他界する︵享年35︶。彼の葬儀は12月6日に[[シュテファン大聖堂]]の十字架チャペルで行われ、4日後の10日には[[エマヌエル・シカネーダー]]などの勧めにより[[ホーフブルク宮殿]]の前にある皇帝用の[[聖ミヒャエル教会 (ウィーン)|聖ミヒャエル教会]]での[[ミサ]]で﹁レクイエム﹂の﹁初演﹂がそれまで完成した形︵第2曲以下を[[クワイアー]]は斉唱︶で行われた。<ref>Mozart﹃Requiem﹄︵Baerenreiter-Verlag Karl Voetterle GmbH、2017︶のChristoff Wolffによる前書き</ref> モーツァルトの死後、未亡人[[コンスタンツェ・モーツァルト|コンスタンツェ]]と再婚した[[ゲオルク・ニコラウス・ニッセン]]の著したモーツァルト伝などにより、彼は死の世界からの使者の依頼で自らのためにレクイエムを作曲していたのだ、という伝説が流布した。当時、依頼者が公になっていなかったことに加え、[[ロレンツォ・ダ・ポンテ]]に宛てたとされる有名な書簡において、彼が死をいかに身近に感じているかを語り、灰色の服を着た使者に催促されて自分自身のためにレクイエムを作曲していると書いているのである。いかにも夭折した天才にふさわしいエピソードとして長らく語られてきたが、1964年になってこの匿名の依頼者が{{仮リンク|フランツ・フォン・ヴァルゼック|en|Franz von Walsegg}}伯爵 {{quotation|
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== 作品の補筆から初演・出版 ==
[[Image:Constanze Mozart by Lange 1782.jpg|thumb|right|100px|コンスタンツェ]]
モーツァルトの死後、貧窮の中に残されたコンスタンツェは、収入を得る手段としてこの作品を完成させることを望んだ。まず、モーツァルトも高く評価していた[[ヨーゼフ・アイブラー]]が補作を進める 伯爵は自分の作品であるとして、[[1793年]][[12月14日]]にウィーンのノイクロスター教会において自身の指揮でこの曲を演奏したが、コンスタンツェは手元に残した写譜から亡夫の作品として出版する。このため後に伯爵が抗議するという一幕もあったというが、モーツァルトの名声はすでに高まりつつあり、この作品はモーツァルトの作品として広く認知されるようになった。なお、{{仮リンク|ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン|de|Gottfried Freiherr van Swieten}}男爵の計らいで、コンスタンツェのために[[1793年]][[1月2日]]に本当の初演が行われたという説がある。 65 ⟶ 67行目:
:'''第7曲 コンフターティス'''【呪われ退けられし者達が】 ([[イ短調]] アンダンテ 4分の4拍子 合唱)
::第5曲同様、他の補筆版では速いテンポで演奏されることが多い。
:
::モーツァルトの絶筆︵8小節、"judicandus homo reus:" まで︶。9小節以降はジュースマイヤーの補筆であるが、作曲は必ずしも曲順に進められるわけではないため、後述の通り、続く第9、10曲も第3~7曲同様、旋律や和声など主要な部分はモーツァルトの作曲である。 132 ⟶ 134行目:
本作品は弟子による補作によっているとはいえ、モーツァルトの傑作の一つとしてしばしば演奏される。演奏会だけでなく、ミサ曲本来の目的である死者の追悼のためにも使われてきた。
[[フレデリック・ショパン|ショパン]]の葬儀でも演奏され、[[1964年]]1月19日には[[カトリック教会|カトリック]]信者であったアメリカ合衆国大統領[[ジョン・F・ケネディ]]の追悼ミサ<ref group="注">1963年11月25日に行われた{{仮リンク|ジョン・F・ケネディの国葬|en|State funeral of John F. Kennedy}}とは別。</ref>でも[[エーリヒ・ラインスドルフ]] [[1989年]]7月23日にはザルツブルグ大聖堂において[[指揮者]]の[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]の追悼ミサで[[リッカルド・ムーティ]]指揮、[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]によって演奏が行われた<ref>{{Cite web|url=https://www.wienerphilharmoniker.at/ja/konzerte/salzburg-festivalrequiem-for-karajan/2545/ |title=Salzburg Festival/Requiem for Karajan |publisher=Vienna Philharmonic |accessdate=2023-12-17}}</ref>。 141 ⟶ 143行目:
== 脚注 ==
{{脚注
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{
== 参考文献 ==
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* {{IMSLP2|work=Requiem in D minor, K.626 (Mozart, Wolfgang Amadeus)|cname=レクイエムK.626}}
* {{ChoralWiki|Requiem, KV 626 (Wolfgang Amadeus Mozart)|レクイエムK.626|prep=の}}
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[[Category:モーツァルトのミサ曲|れくいえむ]]
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