「レクイエム (ヴェルディ)」を編集中
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小説「[[いいなづけ (マンゾーニの小説)|いいなずけ]]」(''I promessi sposi'' )で知られるイタリアの文豪、[[アレッサンドロ・マンゾーニ]]は、ヴェルディが青年時代より通じて最も敬愛していた小説家であった。マンゾーニが[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の死を悼んで詠んだ詩「五月五日」(''Il cinque maggio'' )に対して、1830年頃、まだ10代のヴェルディは曲を付けている(後年ヴェルディ自身によって楽譜は破棄されたらしく、現存しない)。ヴェルディがオペラ作曲家として名を成して以降も、あまりに尊崇の念が強かったため、知遇を得る機会はいくらでもあったにもかかわらず会いに行けず、1868年になってようやくミラノで面会し言葉を交わす、といったほどであったという。 |
小説「[[いいなづけ (マンゾーニの小説)|いいなずけ]]」(''I promessi sposi'' )で知られるイタリアの文豪、[[アレッサンドロ・マンゾーニ]]は、ヴェルディが青年時代より通じて最も敬愛していた小説家であった。マンゾーニが[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の死を悼んで詠んだ詩「五月五日」(''Il cinque maggio'' )に対して、1830年頃、まだ10代のヴェルディは曲を付けている(後年ヴェルディ自身によって楽譜は破棄されたらしく、現存しない)。ヴェルディがオペラ作曲家として名を成して以降も、あまりに尊崇の念が強かったため、知遇を得る機会はいくらでもあったにもかかわらず会いに行けず、1868年になってようやくミラノで面会し言葉を交わす、といったほどであったという。 |
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そのマンゾーニの死([[1873年]]5月22日)はヴェルディに深い悲しみをもたらした。ヴェルディはその個人的なショックが深かったことと、自らが参列することで厳粛な空気が乱されることを恐れて、葬儀には列席しなかったが、同年6月3日個人的にマンゾーニの墓地を訪れて追悼を行った。そしてこの時点までに、新たな「マンゾーニ追悼のレクイエム」の構想を固めたらしい。ヴェルディは楽譜出版社[[リコルディ]]社の総帥、[[リコルディ#ジュリオの時代|ジューリオ・リコルディ]]を通じて[[ミラノ]]市長にレクイエムの提案を行っている。ヴェルディからの条件は、初演の演奏に要する費用を市側が負担してくれれば、楽譜印刷の費用はヴェルディが支出しよう、というものであり、市長もそれを了承した。前回の「ロッシーニ」に懲りてか、ヴェルディはすべて単独で作業を進める心積もりだったようである。 |
そのマンゾーニの死︵[[1873年]]5月22日︶はヴェルディに深い悲しみをもたらした。ヴェルディはその個人的なショックが深かったことと、自らが参列することで厳粛な空気が乱されることを恐れて、葬儀には列席しなかったが、同年6月3日個人的にマンゾーニの墓地を訪れて追悼を行った。そしてこの時点までに、新たな﹁マンゾーニ追悼のレクイエム﹂の構想を固めたらしい。ヴェルディは楽譜出版社[[リコルディ]]社の総帥、[[リコルディ#ジューリオの時代|ジューリオ・リコルディ]]を通じて[[ミラノ]]市長にレクイエムの提案を行っている。ヴェルディからの条件は、初演の演奏に要する費用を市側が負担してくれれば、楽譜印刷の費用はヴェルディが支出しよう、というものであり、市長もそれを了承した。前回の﹁ロッシーニ﹂に懲りてか、ヴェルディはすべて単独で作業を進める心積もりだったようである。
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ヴェルディは1873年の夏、妻ジュゼッピーナと過ごした[[パリ]]で殆どの作曲を行い、翌年4月頃までには完成したと考えられている。なお同中「ラクリモーサ(涙の日)」は『[[ドン・カルロ]]』の[[パリ]]初演([[1867年]])時に演奏時間の都合でカットされた部分の転用、「リベラ・メ(我を救い給え)」は上記「ロッシーニ・レクイエム」の自身の作曲部分の転用である。 |
ヴェルディは1873年の夏、妻ジュゼッピーナと過ごした[[パリ]]で殆どの作曲を行い、翌年4月頃までには完成したと考えられている。なお同中「ラクリモーサ(涙の日)」は『[[ドン・カルロ]]』の[[パリ]]初演([[1867年]])時に演奏時間の都合でカットされた部分の転用、「リベラ・メ(我を救い給え)」は上記「ロッシーニ・レクイエム」の自身の作曲部分の転用である。 |