「レナート・ザネッリ」を編集中
最新版 | 編集中の文章 | ||
1行目: | 1行目: | ||
⚫ | |||
{{スペイン語圏の姓名|ザネッリ|モラレス}} |
|||
⚫ | '''レナート・ザネッリ'''(Renato Zanelli Morales, [[1892年]][[4月1日]] - [[1935年]][[3月25日]])は、[[チリ]]出身の[[オペラ]]歌手。はじめ[[バリトン]]としてデビューした後、[[テノール]]に転向した。特に[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]『[[オテロ (ヴェルディ)|オテロ]]』題名役での歌唱で高い評価を得た。 |
||
⚫ | |||
[[File:Renato Zanelli circa 1915.jpg|thumb|レナート・ザネッリ]] |
|||
⚫ | '''レナート・ザネッリ |
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
[[チリ]]の[[バルパライソ]]に生まれる。父親は[[イタリア]]出身、母親は |
[[チリ]]の[[バルパライソ]]に生まれる。父親は[[イタリア]]出身、母親はチリ人、家庭は大変に裕福であったという。2歳の時から[[スイス]]およびイタリアの寄宿学校に送られ、1911年までヨーロッパで過ごす。19歳で兵役に服するため帰国し、除隊後、チリに客演していたイタリア人歌手にその美声を認められ、初めて本格的な声楽の訓練を受ける。声域は[[バリトン]]であった。
|
||
[[1916年]]9月 |
[[1916年]]9月[[サンチアゴ]]にて、ザネッリは[[シャルル・グノー|グノー]]『[[ファウスト]]』ヴァレンティン役でデビューし、以後数年を南米諸劇場で歌う。[[1919年]]になり[[ニューヨーク]]・[[メトロポリタン歌劇場]](メト)の支配人、[[ジューリオ・ガッティ=カサッザ|ガッティ=カサッザ]]に認められメトにデビューした。同じ頃[[ビクタートーキングマシン|ヴィクター社]]とも契約し、録音吹込も開始している。 |
||
しかしメトでの彼は決してトップ級バリトンの扱いを受けることはなかった。この頃の同劇場は高額 |
しかしメトでの彼は決してトップ級バリトンの扱いを受けることはなかった。この頃の同劇場はその驚異的な高額ギャラ目当てに多くのイタリア人名バリトン歌手――例えば[[パスクアーレ・アマート|アマート]]、[[ジュゼッペ・デ・ルーカ|ルーカ]]、[[アントニオ・スコッティ|スコッティ]]――を惹きつけていたため、南米出身のザネッリは2番手扱いだったのだろう。ザネッリは、自らの声がバリトンとしては比較的軽く、高音域までをカヴァーできていることから、[[テノール]]への転向を決意する。一説にはテノール転身を勧めたのは大指揮者[[アルトゥーロ・トスカニーニ|トスカニーニ]]だったともいう。 |
||
1923年-24年を声域変更のため棒に振ったザネッリは、1924年10月になり[[ナポリ]]に現れ、[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]﹃[[椿姫 (オペラ)| |
1923年-24年を声域変更のため棒に振ったザネッリは、1924年10月になり[[ナポリ]]に現れ、[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]﹃[[椿姫 (オペラ)|ラ・トラヴィアータ]]﹄アルフレード役でテノールとしての再デビューを飾った。その後も南イタリアを中心に活動しつつテノールとしてのレパートリー習得に努め、1925年になりヴェルディ﹃[[オテロ (ヴェルディ)|オテロ]]﹄題名役に到達した。オテロの低い[[テッシトゥーラ]]はバリトン出身の彼に最適であり、これは﹁[[フランチェスコ・タマーニョ]]︵﹃オテロ﹄初演時のテノール︶の再来﹂と評され、ザネッリの十八番となった。
|
||
この他ザネッリが得意としたのはヴェルディ﹃[[運命の力]]﹄アルヴァーロ役、[[ルッジェーロ・レオンカヴァッロ|レオンカヴァッロ]]﹃[[道化師 (オペラ)|道化師]]﹄カニオ役、[[ウンベルト・ジョルダーノ|ジョルダーノ]]﹃[[アンドレア・シェニエ]]﹄題名役などのテノーレ・ドラマティコ諸役であった。イタリア各地ではまた[[リヒャルト・ワーグナー| |
この他ザネッリが得意としたのはヴェルディ﹃[[運命の力]]﹄アルヴァーロ役、[[ルッジェーロ・レオンカヴァッロ|レオンカヴァッロ]]﹃[[道化師 (オペラ)|道化師]]﹄カニオ役、[[ウンベルト・ジョルダーノ|ジョルダーノ]]﹃[[アンドレア・シェニエ]]﹄題名役などのテノーレ・ドラマティコ諸役であった。イタリア各地ではまた[[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]]のヘルデンテノール諸役、例えば﹃[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]﹄トリスタン役や﹃[[ローエングリン]]﹄題名役なども︵[[イタリア語]]で︶歌って好評を得た。ただし彼のヴァーグナー歌唱は殆ど録音が残っていない。
|
||
1930年代に入るとザネッリは身体の不調を訴えることが多くなる。診断ははじめ[[腎不全]]、やがて[[腎臓]][[悪性腫瘍|癌]]となった。彼は故国チリに帰国し、﹃オテロ﹄など得意の演目に出演しつつ治療に努めた。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へのツアーも計画され、実際彼は1934年2月にアメリカに入国しているが、病状の進行によりツアーはキャンセルされ、彼はそのままチリに帰国、翌[[1935年]]3月25日、43歳の誕生日を目前に他界した。
|
1930年代に入るとザネッリは身体の不調を訴えることが多くなる。診断ははじめ[[腎不全]]、やがて[[腎臓]][[悪性腫瘍|癌]]となった。彼は故国チリに帰国し、﹃オテロ﹄など得意の演目に出演しつつ治療に努めた。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へのツアーも計画され、実際彼は1934年2月にアメリカに入国しているが、病状の進行によりツアーはキャンセルされ、彼はそのままチリに帰国、翌[[1935年]]3月25日、43歳の誕生日を目前に他界した。
|
||
弟カルロ([[1897年]]-[[1970年]])も「カルロ・モレッリ」の芸名で名バリトン歌手として活躍し、兄レナートと『オテロ』での共演もあった。カルロは後に声楽教師に転じ、[[プラシド・ドミンゴ]]を育てたことでも有名である。 |
実弟のカルロ([[1897年]]-[[1970年]])も「カルロ・モレッリ」の芸名で名バリトン歌手として活躍し、兄レナートと『オテロ』での共演もあった。カルロは後に声楽教師に転じ、[[プラシド・ドミンゴ]]を育てたことでも有名である。 |
||
[[Category:テノール歌手|さねつり れなと]] |
|||
{{Normdaten}} |
|||
|
[[Category:バリトン歌手|さねつり れなと]] |
||
[[Category: |
[[Category:1892年生|さねつり れなと]] |
||
[[Category: |
[[Category:1935年没|さねつり れなと]] |
||
[[Category:チリの声楽家]] |
|||
[[Category:イタリア系チリ人]] |
|||
[[Category:バルパライソ出身の人物]] |
|||
[[Category:1892年生]] |
|||
[[Category:1935年没]] |