上田馬之助
経歴
遠江国浜松藩出身。幕末江戸三大道場のひとつである鏡新明智流の﹁士学館﹂に入門し、桃井春蔵に師事。﹁士学館四天王﹂の一人に数えられ、﹁桃井の小天狗﹂と呼ばれた。
慶応元年9月3日︵1865年︶、新両替町の料亭で天童藩剣術師範役の中川俊造︵中島一郎︶と伊藤慎蔵を斬り、名を上げた。
1879年︵明治12年︶、警視庁に撃剣世話掛が創設されると、梶川義正、逸見宗助とともに最初に登用された。警視庁剣術の代表的人物であった。
1887年︵明治20年︶11月11日、明治天皇が伏見宮邸を訪れた際、兜割試合が催された。出場者は上田と、同じく警視庁撃剣世話掛の逸見宗助、そして撃剣興行で有名な榊原鍵吉であった。上田と逸見は兜を斬れなかったが、榊原は名刀﹁同田貫﹂を用いて約11.5cm斬り込んだ。
竹刀で木の板を貫通させることができ、実演してみせることもあったという。
上田馬之助を扱った作品
- 『斬ってはみたが』(司馬遼太郎)
関連項目
- 上田馬之助 (プロレスラー) - (リングネームはこの人物に因む)。