二条基弘
経歴
1884年︵明治17年︶7月7日華族令の制定に基づき公爵を授けられ華族に列せられる。これは元々明治維新の後明治2年には華族制度があり基弘も華族の一員であったが、具体的にそれを裏付ける法的根拠がなかった。また、華族の呼称は本来公家の家格の一つである清華家の別称であった。したがって、公家の最高位である摂家に位置していた二条家も1884年の令制定までは一段下の族称となっていたのである。基弘は歌や書に優れていたという。公爵の地位から北海道開拓に関った北海道協会会頭をつとめ、明治10年代に設立された写真協会では侯爵徳川篤敬会長のもと副会長に就任する。1902年︵明治35年︶には菅原道真の威徳を称えた﹁菅原道真千年祭﹂が挙行されるが、祭を取仕切った北野会会長でもある。同年12月5日弟の正麿が分家し男爵を授爵する。1919年︵大正8年︶11月29日に隠居し、その旨、翌年1月14日に宗秩寮より貴族院に通牒が届き貴族院公爵議員を退任した[1]。
基弘の後を子の厚基が継ぐ。厚基︵妻:島津泰子︵島津長丸と治子の次女︶︶には子が無かった為先の分家筋である弼基︵義弟・正麿の子︶が後を継ぐ。基弘の女子敬子は鍋島直高夫人、康子は二条正麿夫人、澄子は小津茂郎夫人、承子は平光壽夫人となる。