「二条院讃岐」を編集中
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[[ファイル:Hyakuninisshu Mitsusada Tosa 092.jpg|thumb|240px|二条院讃岐 - 土佐光貞画 芝山持豊筆 文化五年版百人一首]] |
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'''二条院讃岐'''︵にじょういん の さぬき、[[永治]]元年︵[[1141年]]︶頃? - [[建保]]5年︵[[1217年]]︶頃?︶は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]前期にかけての女流[[歌人]]。父は[[源頼政]]。母は[[源斉頼]]の娘。同母兄に[[源仲綱]]がある。'''内讃岐'''、'''中宮讃岐'''とも称される。
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初め[[二条天皇]]︵二条院︶に仕え、天皇が崩御した後に[[藤原重頼]]と結婚し重光・有頼らの母となった。この頃には歌人として評判を得ており﹁歌仙落書﹂にその詠歌が入集している。[[建久]]元年︵[[1190年]]︶頃、[[後鳥羽天皇]]の[[中宮]][[九条任子|任子]]︵宜秋門院︶に再出仕したが、後に[[出家]]。隠棲後も後鳥羽上皇、[[順徳天皇|順徳上皇]]の[[歌壇]]に迎えられ、﹁正治二年初度百首﹂﹁千五百番歌合﹂に詠歌が採られている。また、晩年には父頼政の所領であった[[若狭国]][[宮川保]]の[[地頭]]となっていたことが知られている。﹃[[千載和歌集|千載集]]﹄以下の[[勅撰和歌集]]に72首が入集。家集に﹃二条院讃岐集﹄がある。
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'''二条院讃岐'''︵にじょういんのさぬき、生没年不詳‥[[1141年]]︵永治元年︶頃 - [[1217年]]︵建保5年︶以降︶は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]前期にかけての[[歌人]]である。[[女房三十六歌仙]]の一人。父は[[源頼政]]。母は[[源斉頼]]の娘。同母兄に[[源仲綱]]があり、従姉妹に[[宜秋門院丹後]]がある。'''内讃岐'''、'''中宮讃岐'''とも称される。
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『[[小倉百人一首]]』から |
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== 経歴 == |
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{{Cquote|わが袖は 潮干(しおひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らぬ 乾く間もなし|『[[千載和歌集]]』恋二759}} |
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[[二条天皇]]即位と同じ頃に内裏女房として出仕、[[1159年]]︵平治元年、19歳頃︶以降度々内裏和歌会︵﹁内の御会﹂︶に出席し、内裏歌壇での評価を得た<ref name=isa/>。この時期の歌が、[[俊恵]]﹃歌苑抄﹄に代表作<ref group=注釈 name=kaen/>として言及されている。
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「[[沖の石]]の讃岐」はこの歌によりつけられた異名である。 |
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== 「世にふる」の系譜 == |
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この後、二十代半ばから四十代後半にかけての讃岐の動静については、大きく分けて二説あり、両説の隔たりは大きい。 |
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二条院讃岐の |
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* 先行研究説︵﹃尊卑分脈﹄の系図注記<ref group=注釈 name=sonpi/>に基づく説︶‥二条院に最後まで仕え、崩御後に[[藤原重頼]]と結婚、重光・有頼らの母となった。[[1190年]]︵建久元年︶頃、[[後鳥羽天皇]]の[[中宮]]宜秋門院[[九条任子|任子]]に再出仕。
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*世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨かな |
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* 新︵伊佐迪子)説<ref name=isa/>︵主に﹃[[玉葉]]﹄等の記録に基づく説︶‥[[1163年]]︵長寛元年︶頃内裏女房を退き、[[1165年]]︵永萬元年︶頃から[[皇嘉門院]]に出仕。この間、歌林苑での活動を継続。[[1174年]]︵承安4年︶より[[九条兼実]]家女房。兼実の同居妻となる。[[1187年]]︵文治2年︶より同家﹁北政所﹂と称する。1190年同家の姫君任子が後鳥羽天皇の中宮として入内、讃岐は中宮女房としてではなく、引続き九条家を切盛りしている。
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は延々と続く[[本歌取り]]のもととなった。 |
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これは「世の中を、人と関わり合いながら生きてゆくのは、苦しいものだわ。そんな思いで冬の夜を過ごしていたら、槙で葺いた屋根を叩いて初時雨が通り過ぎていった。辛い思いをしている人の家の上を、なんとまあやすやすと過ぎてゆく雨だこと。」という意味である。 |
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<!--[鑑賞]--> |
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[[1172年]]︵承安2年、32歳頃︶に﹃歌仙落書﹄で高く評価<ref group=注釈 name=rakusyo/>される等、歌壇とのつながりは保っていたようだが、[[1200年]]︵正治2年、60歳頃︶の初度百首で数十年ぶりに歌壇への本格復帰を果たした。この頃には既に出家している。晩年には父頼政の所領であった[[若狭国]][[小浜市|宮川保]]の[[地頭]]職を継いでいる他、[[伊勢国]]の所領をめぐる訴訟で高齢を押して鎌倉出訴<ref name=aduma/>の旅に出る等の事跡もある。これらを縫って歌人としての活動は継続し、[[1216年]]︵建保4年、76歳頃︶の﹃内裏歌合﹄まで健在だったことが確認できる。﹃[[千載和歌集]]﹄以降の[[勅撰集]]、﹃続詞花集﹄・﹃今撰集﹄等の[[私撰集]]、家集﹃二条院讃岐集﹄等に作品を残している。
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﹁恋愛に鬱屈しているところへ、恋人は訪れず代りにしぐれの雨が過ぎていった、という恋歌の風情を纏綿させている、﹃ふる﹄の使いわけに、歌の中心がある﹂<ref>﹃岩波古典大系﹄の注</ref>というのは、浅い読みで、人事と自然の対比にこそ﹁歌の中心﹂があると言うべき。<ref>[[水垣久]]﹃千人万首﹄より</ref>という。
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== |
===後続の歌=== |
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*まぱらなる槙の板屋に音はして漏らぬ時雨や木の葉なるらん - [[藤原俊成]]『[[千載集]]』 |
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* 二条院崩御の翌[[1166年]](仁安元年)、『後白河院当座歌合』の場での、内裏歌合のベテランらしい讃岐の立振舞が伝えられている。 |
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*さゆる夜の槙の板屋のひとり寝に心くだけと霰ふるなり - [[九条良経]]『千載集』 |
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{{quotation| |
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金吾の口伝のうちに 女房の故実に 兼日の懐紙なき時は 後白河院の仁安御歌合<br> |
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当座にて侍りけるに 讃岐参たりけるに 扇をさし出して題をたまはりけるとかや<br> |
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まことにある中にきはもたちて いみじく見えたりけるとなん申侍り |
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|[[藤原定家]] 『愚秘抄』}} |
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* 「世にふる」の系譜:二条院讃岐の<ref name=shinkokin/> |
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{{quotation| |
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千五百番歌合に 冬の歌 二条院讃岐<br> |
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世にふるはくるしき物をまきのやに やすくも過る初時雨哉 |
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|『新古今和歌集』 巻第六 冬歌}} |
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:は、延々と続く本歌取りのもととなった<ref group=注釈 name=moto/>。﹁恋愛に鬱屈しているところへ、恋人は訪れず代りにしぐれの雨が過ぎていった、という恋歌の風情を纏綿させている、﹃ふる﹄の使いわけに、歌の中心がある﹂<ref name=iwanami/>というのは、浅い読みで、人事と自然の対比にこそ﹁歌の中心﹂があると言うべき<ref name=mizugaki/>という。後続の歌<ref name=senzai1/>
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{{quotation| |
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崇徳院に百首の歌奉りける時 落葉の歌とてよめる 皇太后宮大夫俊成<br> |
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まはらなる槙の板やに音はして もらぬ時雨や木葉なるらん<br> |
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<br> |
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閑居聞霰といへる心を読侍ける 左近中将良経<br> |
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さゆる夜の真木の板屋の独ねに 心くたけと霰ふるなり |
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|『千載和歌集』 巻第六 冬歌}} |
|||
:この二条院讃岐の歌は、さまざまな連歌・俳諧に取り入れられていった。 |
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{{quotation| |
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世々ふるもさらに時雨のやどり哉 - 後村上院<br> |
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雲はなほ定めある世のしぐれかな - 心敬<br> |
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世にふるもさらに時雨のやどりかな - 宗祇<br> |
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時雨の身いはゞ髭ある宗祇かな - 素堂<br> |
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世にふるも更に宗祇のやどり哉 - 芭蕉<br> |
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世にふるもさらに祇空のやどりかな - 淡々<br> |
|||
世にふるはさらにはせをの時雨哉 - 井上士朗<br> |
|||
時雨るゝや吾も古人の夜に似たる - 蕪村 |
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}} |
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この二条院讃岐の歌は、さまざまな連歌・俳諧に取り入れられていった。 |
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== 作品 == |
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*世々ふるもさらに時雨のやどり哉 - [[後村上天皇|後村上院]] |
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;[[勅撰集]] |
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*雲はなほ定めある世のしぐれかな - [[心敬]] |
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{| class="wikitable" |
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*世にふるもさらに時雨のやどりかな - [[宗祇]] |
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! 歌集名 !! 作者名表記 !! 歌数 |
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*時雨の身いはゞ髭ある宗祇かな - [[素堂]] |
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! 歌集名 !! 作者名表記 !! 歌数 |
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*世にふるも更に宗祇のやどり哉 - [[芭蕉]] |
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! 歌集名 !! 作者名表記 !! 歌数 |
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*世にふるもさらに祇空のやどりかな - [[淡々]] |
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*世にふるはさらにはせをの時雨哉 - [[井上士朗]] |
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<!--- |
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*時雨るゝや吾も古人の夜に似たる - [[蕪村]] |
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| [[古今和歌集]]|| || |
|||
| [[後撰和歌集]]|| || |
|||
| [[拾遺和歌集]]|| || |
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|- |
|||
| [[後拾遺和歌集]]|| || |
|||
| [[金葉和歌集]]|| || |
|||
| [[詞花和歌集]]|| || |
|||
|- |
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---> |
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| [[千載和歌集]]||二条院讃岐<br>讃岐|| 3<br> 1 |
|||
| [[新古今和歌集]]||二条院讃岐||16 |
|||
| [[新勅撰和歌集]]||二条院讃岐||13 |
|||
|- |
|||
| [[続後撰和歌集]]||二条院讃岐|| 3 |
|||
| [[続古今和歌集]]||二条院讃岐|| 6 |
|||
| [[続拾遺和歌集]]||二条院讃岐|| 2 |
|||
|- |
|||
| [[新後撰和歌集]]||二条院讃岐|| 3 |
|||
| [[玉葉和歌集]]||二条院讃岐|| 8 |
|||
| [[続千載和歌集]]||二条院讃岐|| 4 |
|||
|- |
|||
| [[続後拾遺和歌集]]||二条院讃岐|| 3 |
|||
| [[風雅和歌集]]|| || |
|||
| [[新千載和歌集]]||二条院讃岐|| 1 |
|||
|- |
|||
| [[新拾遺和歌集]]||二条院讃岐|| 3 |
|||
| [[新後拾遺和歌集]]||二条院讃岐|| 1 |
|||
| [[新続古今和歌集]]||二条院讃岐<br>二条院さぬき|| 3<br> 1 |
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|- |
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|} |
|||
==脚注== |
|||
;[[定数歌]]・[[歌合]] |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{| class="wikitable" |
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<div class="references-small"><references /></div> |
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! 名称 !! 時期 !! 作者名表記 !! 備考 |
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| 別雷社歌合||[[1178年]](治承2年)||二条院讃岐||父と共に出詠 |
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| 民部卿家歌合||[[1195年]](建久6年)3月3日||中宮讃岐|| |
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| 正治初度百首||[[1200年]](正治2年)||讃岐 <sub>二条院女房</sub>|| |
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|- |
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| 新宮撰歌合||[[1201年]](建仁元年)3月||讃岐 <sub>二条院官女頼政女</sub>||勝1 |
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|- |
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| 和歌所影供歌合||[[1201年]](建仁元年)8月3日||女房讃岐||[[藤原俊成]]と番い負5無判1 |
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|- |
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| 八月十五夜撰歌合||[[1201年]](建仁元年)||讃岐||負4 |
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|- |
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| 千五百番歌合||[[1202年]](建仁2年)||讃岐|| |
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|- |
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| 内裏百番歌合||[[1216年]](建保4年)閏6月9日||二条院讃岐||[[久我通光]]と番い負9持1 |
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|- |
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|} |
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{{Wikiquote}} |
|||
;[[私撰集]]等 |
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* 三百六十番歌合([[1200年]](正治2年)) |
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** 「讃岐 <sub>宜秋門院女房</sub>」名で12首 |
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;[[私家集]] |
|||
* 『二条院讃岐集』(真観本)(鎌倉時代中期写本 冷泉家時雨亭文庫 [[重要文化財]]) |
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== 百人一首== |
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* 92番 |
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{{quotation| |
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寄石恋といへる心を 二条院讃岐<br> |
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わか袖は塩干に見えぬ[[矢代湾#沖の石|沖の石]]の 人こそしらねかはくまもなし |
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|『千載和歌集』 巻第十二 恋歌二}} |
|||
:「沖の石の讃岐」はこの歌<ref name=senzai2/>によりつけられた異名である。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{reflist|2|group=注釈|refs= |
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{{refnest|group=注釈|name=kaen|「俊恵が哥苑抄の中には 一夜とて夜離れし床の小筵に やがても塵の積りぬる哉 是をなんおもて哥と思ひ給ふるはいかヾ侍らんとぞ」<ref>[[鴨長明]] 『無名抄』 代々恋歌秀歌事</ref>}} |
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<ref group=注釈 name=sonpi>重光と有頼の母について「従三位頼政女二条院讃岐」と記されている。</ref> |
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<ref group=注釈 name=rakusyo>「風體艶なるを先として いとほしきさまなり 女のうた かくこそあらめと あはれにも侍るかな」</ref> |
|||
<ref group=注釈 name=moto>歌意は「世の中を、人と関わり合いながら生きてゆくのは、苦しいものだわ。そんな思いで冬の夜を過ごしていたら、槙で葺いた屋根を叩いて初時雨が通り過ぎていった。辛い思いをしている人の家の上を、なんとまあやすやすと過ぎてゆく雨だこと。」という意味である。</ref> |
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}} |
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=== 出典 === |
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{{reflist|2|refs= |
|||
<ref name=senzai1>『千載和歌集』 巻第六 冬歌 00403,00444</ref> |
|||
<ref name=senzai2>『千載和歌集』 巻第十二 恋歌二 00759</ref> |
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<ref name=shinkokin>『新古今和歌集』 巻第六 冬歌 00590</ref> |
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<ref name=mizugaki>水垣久『千人万首』より</ref> |
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<ref name=iwanami>『岩波古典大系』の注</ref> |
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<ref name=isa>伊佐(参考文献)</ref> |
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<ref name=aduma>『吾妻鏡』 承元元年十一月十七日条</ref> |
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== 参考文献 == |
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* 古城明美 「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110004671894 二條院讃岐集考]」 『香椎潟』 21,37-42 1975年10月15日 [[福岡女子大学]] |
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* [[森本元子]] 『二条院讃岐とその周辺』 笠間叢書 1984年5月 [[笠間書院]] ISBN 978-4305101822 |
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* 小田剛 『二条院讃岐全歌注釈』 研究叢書 2007年12月 和泉書院 ISBN 978-4757604315 |
|||
* 伊佐迪子 「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007975218 二条院讃岐新考]」 『佛教大學大學院研究紀要』(01-21) 2008年3月1日 [[佛教大学]]大学院 |
|||
* 伊佐迪子 「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007974738 二条院讃岐の人生]」: 前半生を中心に 『佛教大学大学院紀要』(22-36) 2010年3月1日 佛教大学大学院 |
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* 伊佐迪子 「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110008454262 二条院讃岐の実人生:後半生を中心に]」 『佛教大学大学院紀要』(22-36) 2011年3月1日 佛教大学大学院 |
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{{Portal|文学}} |
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{{Wikiquote|二条院讃岐}} |
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{{百人一首}} |
{{百人一首}} |
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{{DEFAULTSORT:にしよういんのさぬき}} |
{{DEFAULTSORT:にしよういん の さぬき}} |
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[[Category:女房名]] |
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[[Category:12世紀日本の女性]] |
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[[Category:13世紀日本の女性]] |
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[[Category:12世紀日本の女性著作家]] |
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[[Category:13世紀日本の女性著作家]] |
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[[Category:源頼政の子女]] |
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[[Category:摂津源氏]] |
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[[Category:日本の女性歌人]] |
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[[Category:平安時代の女性]] |
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[[Category:鎌倉時代の女性]] |
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[[Category:平安時代の歌人]] |
[[Category:平安時代の歌人]] |
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[[Category:鎌倉時代の歌人]] |
[[Category:鎌倉時代の歌人]] |
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[[Category:12世紀の歌人]] |
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[[Category:小倉百人一首の歌人]] |
[[Category:小倉百人一首の歌人]] |
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[[Category: |
[[Category:清和源氏]] |
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[[Category:摂津源氏]] |
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